【短編小説】キミの足音はもう聴こえない(3/4)

 ぬるま湯のような淀んだ空気は、徐々に秋の爽やかさに置き換わろうとしていた。
 雲は細かく千切れていき、空の青さは突き抜けるように深さを増している。
 時が経過しようと、ボクの生活は特に変わらない。
 はずだった。
「両親が、コウくんに会いたいって言ってるんだけど」
 控えめに差し出されたその言葉に、ボクは即座に反応できなかった。
 結婚。妙に刺々しいその言葉が、言語中枢を尿管結石のように阻害する。
 別に親に紹介されたからって、すぐに結婚を求められるわけではない。
 しかし、イヤでも意識させられてしまう。
 だから、ボクは必要以上に時間をかけた挙句、キレの悪いモラトリアムな返答しか吐き出せなかった。
「……もうちょっと先じゃダメかな」
 なんで? と問いたげな視線でヒトミはボクを見つめた。しかし、問い詰めはしない。同時に、ボクは自分で自分に同じように問いかけた。なんで?
 先っていつだ? 先にすることに何の意味がある? なぜ今ではダメなんだ?
 それらの問いに、ボクは一つも答えられなかった。
「じゃ、ご飯食べよっか」
 重苦しい空気を払いのけるように、ヒトミは明るい口調でそう言った。
 それから一週間ほど経ったある日。
 ボクはヒトミの変化に気付かざるを得なかった。
 その日は事前に、ヒトミから訪問の連絡が入っていた。お鍋の用意をするから、夕飯任せてね、というSNSでの連絡だった。
 親への紹介の話は、あれ以来出ていなかった。答えを求められてもいなかった。だからその日も、単なる夕食か、その後のセックスくらいしか予定していなかった。だとしても、ボクはヒトミの訪問を楽しみにしていた。何よりも、その足音を。
 だから、その足音は、ボクの幻滅しか誘わなかった。
 ガチン、ガチン。
 薄い鉄板の踏み板を、足全体で叩きつけるような足音。そこには躍動感の欠片もなかった。
 ガチン、ガチン。
 音の軽さから言って、間違いなく女性だろう。しかし、足全体を一度に下ろしているために音が響かず、臆病さや、嫌悪感のようなネガティブなエネルギーがその音に纏わりついているように感じられた。
 ガチン、ガチン。
 たぶんこの足音の主は、手摺を力いっぱい握り、重心を低くして、怖がるように階段を上がっているのだ。まるで、階段を上がりたくないと思っているみたいに。
 ガチッ!
 残念。この足音はヒトミじゃない。もうちょっと待つか。
 足音を聴くために消音にしていたテレビの音量を上げる。
 しかし、コツコツというノックの音ははっきりと聞こえた。
 誰だろう? 呼び鈴のないこの部屋では、訪問者はノックする以外にない。だから聞き慣れたノックの音だったとしても、たまたま似たようなノックなのだと思った。
 それほどまでに、ボクは確信していた。この足音はヒトミのものではないと。
 だから、そこに立っていたヒトミを見て、ボクはフリーズするように思考停止していた。
「お疲れ。すぐにご飯の準備するね」
 いつも通りの台詞と微笑。何も変わらない。だからこそ余計に混乱した。
 体調が悪いとか、そういうことではないのか。
 変化の理由を、必死に探す。
 足音の、変化の理由を。
 でも、何も見つからない。どこも違わない。数日前に部屋に来た時のヒトミと、変わっているところなど何もない。
 やはり、あれが原因なのだろうか。
 キッチンに立つヒトミの後姿を眺めながら、ぼんやりと推測する。
 親への紹介を先送りにしたこと。それで、一段飛ばしで階段を駆け上がる意欲が消え失せてしまったということなのだろうか。
 すべては推測だ。たまたま今日だけ、たまたま今だけ、階段をゆっくり一段ずつ上がってきただけのことだ。
 じゃあ、次は?
 仮説を証明するには検証するしかない。
 ボクは、ささやかな説得力すら心もとない取ってつけたようないい加減な理由で、ヒトミを追い出してみた。
「今日、鍋ならさ、チューハイじゃなくてビールがいいんだけど、今切らしてるんだよ。買ってきてもらえないかな?」
「んん? 別にいいけど、お鍋火にかけたままにするから、見ておいてね」
 気を悪くした様子もなく、ヒトミはエプロンを外して部屋を出て行った。
 一人になった部屋の中で考える。
 親への紹介をすぐに承諾しなかったから、ヒトミの足音は変わってしまったのだろうか。
 だとしたら、紹介を承諾さえすれば、足音は元に戻るのだろうか。元の、躍動感とポジティブなエネルギーに満ちた、弾むような弾けるようないつものヒトミの足音に。
 なら、別に迷うことなどない。なにもすぐに結婚するわけじゃない。ちょっと親に頭を下げるだけだ。それでまずいことがあるのか?
 だしのいい香りが、鍋から漂ってくる。火は弱火になっているから、吹きこぼれたり焦げ付いたりすることはなさそうだ。
 まずいことなんてない。
 ボクは自らの問いに答える。
 まずいことなんてないが、何かちょっと釈然としないのだ。
 ボクだってヒトミだって二十七歳なのだから、結婚に向かって一歩前進したっていい。相手がヒトミであれば、ボクに不満なんてない。ただ、一歩進めるきっかけになるのは、ヒトミではなくボクからであってほしかった。
 別に、プロポーズするのは女性ではなく男性からでないといけないとか、そんなジェンダーに凝り固まったことを言いたいのではなく、ボクとヒトミの関係性はそうあるべきだと思ったのだ。
 ボクが決めたことにヒトミが従う。ボクはその決定に責任を持ち、ヒトミはボクを信じる。それがボクらの関係性だと思うのだ。
 しかし。
 と、ボクは思う。
 しかし、本当にそれだけなのだろうか。
 ヒトミの足音が変化した理由は、ボクがヒトミの親への紹介を先送りにしたことだけなのだろうか。
 不安が、胸の中でどろりと渦を巻く。
 親への紹介すら嫌がるボク自身に、ヒトミは失望したかもしれない。
 もしかしたら、試したのだろうか。 適齢期であるのに、いつまでも結婚を切り出さないボクを。そしてボクは、その試験に落ちたのだ。
 だからヒトミは、オンボロアパートの階段を一段飛ばしで駆け上がることもなく、重たい足を引きずるようにして上ってきたのではないだろうか。
 恐怖心にも似た不安感に首を絞められているように、ボクは息苦しさに喘いだ。
 その時、再び誰かが階段を上がる足音が響いた。
 ガチン、ガチン。
 重い落胆が、ボクの両肩にのしかかるようだった。
 先程と同じ音。間違いなく、ヒトミの足音だ。
 そして、仮説は検証された。
 ヒトミの足音が変化したのは、たまたまなんかではなかった。もしかしたら、次こそ階段を駆け上がってくるのではという淡い期待は、パチンと音を立てるようにして消えた。
 ガチン、ガチン。
 鈍い音。ネガティブな響き。思わず、耳を塞ぎたくなる。
 ガチン、ガチン。
 足音から滲み出る嫌悪感は、不要な詮索まで呼び寄せる。
 ひょっとして、ほかに男ができたのか?
 その根拠のない憶測は、自分でも不思議に思うほどの切実な焦燥感となって胸を妬いた。
 ガチッ!
 ヒトミの履いているミュールの底が、二階の廊下のコンクリートを叩く。

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