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ショートショート「寄星虫」

「ねえ、ママー」


 その男の子は、図鑑を見ながら甘えた声を上げた。


「キセイチュウってなあにー?」


 幼児が読むには厚くて高価すぎるその図鑑を買ったのは祖父母だった。


 子どもの教育に効果があると思って祖父母に買わせるよう誘導したのは母親だったが、今となっては子どもが読むたびに繰り出してくる「なあに?」攻撃にうんざりし、図鑑を買わせたことを後悔していた。


 今も、息子の声が聞こえてはいたが、あわよくば無視してるうちに気が逸れないかと思いながら、テレビから目を離さずにせんべいを頬張った。


 テレビの液晶画面には、素性のわからない芸能レポーターを名乗る人間が不倫した芸能人の個人情報を嬉々として暴露する映像が映し出されている。コメンテーターを名乗る人間は、権限もないのにその芸能人を断罪する。キセイチュウ。男の子の声が、1DKの賃貸コーポに響く。


「ねえ、ママー。キセイチュウってどんな虫なのー?」


 やれやれ。重たいため息を吐き出しながら、ソファに横たわっていた母親は、ゆっくりと身体を起こした。頑固というか、一度言い出したら聞かないのは、誰に似たのやら。自虐的というより自省的に自問しながら、母親は息子に向き直った。


「キセイチュウはね、ほかの生き物の中に住んで、その栄養を盗んで食べちゃう悪い虫なの。コウちゃんも落ちてるものを拾って食べたりしたらダメよ」


「うん。わかったー」


 甲高い声が、生活感に溢れた狭いアパートの室内に響く。


 母親はその声に満足し、視線をテレビに戻した。画面には、不正受給する政治家や、従業員を自殺に追い込むブラック企業や、架空請求詐欺で逮捕される若者の報道が映し出されていた。キセイチュウ。男の子の声は、何度もアパートの薄い壁を叩いていた。


「でも、ママー。キセイチュウが栄養を食べちゃうと、もとの生き物も死んじゃうよ?」


 口いっぱいにせんべいを頬張る母親は、男の子に返事をすることができなかった。


 リモコンを手に取り、天気予報を見るために国営放送に変えたテレビの画面には、地球温暖化により溶けていく南極の氷や、大規模な森林火災に手をこまねく南半球の国家や、異常気象による不作に嘆く農家の映像が映し出されていた。


「ねえ、ママー。もとの生き物が死んだら、キセイチュウはどうなるの? ねえ、ママー」


 返答のない男の子のその問いかけは、やけに大きくアパートの室内に反響していた。

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