【短編小説】キミの足音はもう聴こえない(4/4)
「ただいまー」
ノックと同時に玄関のドアを開けるヒトミの手首を、ボクは強く掴んで部屋の中で引き込んだ。
「痛いよ。なに? どうしたの?」
驚いた様子で、ヒトミがボクに問いかける。
言葉には出さずに、ボクは答える。
痛いのが、好きなんだろ。
服の上から、小ぶりな胸を荒々しく掴む。
「もう。ご飯まだなのに」
わずかにボクの身体を押し返す。しかし、それすらもポーズなのだ。抵抗することで、ボクの興奮を誘っているのだろう。噛みつくように、ボクはヒトミの唇を塞いだ。
「待って。ガスは消させて」
諦めたような表情で、ヒトミは全身の力を抜いていた。
ボクはキッチンまで歩き、ガスコンロの火を消した。
ヒトミの足音を取り戻すのだ。
ボクは、前に使えなかった革製の手錠を持って、ヒトミに向き直った。
ヒトミの望むセックスをすることで、ヒトミの気持ちを繋ぎ止め、ポジティブなエネルギーに満ちたいつもの足音を再び取り戻す。
怯えたような、ヒトミの視線。しかし、それもポーズだ。ボクは、タオルも手に取った。
「それ、どうするの?」
上目遣いで恐る恐る問いかけるヒトミを、ボクは無言のままタオルで目隠しした。
「ちょっとこれ、怖いよ……」
「今日は少し、痛いことしようか」
耳元で囁くと、ヒトミはぎゅっと全身を強張らせた。
手錠を嵌めてみる。手首全体を拘束する、ベルト式の硬い革の手錠。ベルトを締め、小さな南京錠をかける。そのままカーペットに押し倒し、手錠したままの両腕を頭の上で動かないように押さえつけた。
セーターとブラジャーを捲り上げ、露わになった胸に歯を立てる。
わずかにヒトミの口から声が漏れ、小ぶりな胸の先端が尖り始めた。
SMの正しいやり方など、ボクは理解しているわけではない。ただ、なんとなく、それらしいことをしているだけだ。だから、詳しい人には笑われるかもしれない。とにかくボクは、ヒトミに痛みを与えることが必要だと思っていた。
ボクは左手一本でヒトミの両腕を固定させたまま、ヒトミの左手の二の腕をつねった。
ヒトミはぐっと歯を食いしばって、その痛みに耐えている。
つねっていた指を離す。白くて滑らかなヒトミの肌が赤らんでいるが、内出血するほどではない。跡は残らないはずだ。
続けてボクは、引き締まったお腹に指を這わせ、おへその横をつねろうと指に力を入れた。
その瞬間。
「ダメッ!」
鋭い叫びとともに、ヒトミは覆い被さっているボクを手錠で拘束されたままの両腕で突き飛ばした。
その力は本気だった。ポーズや演技ではない。ヒトミは本気で嫌がっているのだ。
ヒトミは急いで自分でタオルの目隠しを外し、上体を起こした。
ボクは、そのヒトミと向かい合うような形でへたり込んでいた。
そして、ショックを受けていた。
ヒトミは、ボクを拒絶したのだ。
親への紹介をすぐ承諾しないボクを。
その結果、高らかに弾んでいた足音はネガティブな響きに変わり、ヒトミはボクを突き飛ばした。
呆然としたボクの視線を受け止め、ヒトミ自身も驚いた様子で口を開いた。
「ごめんなさい。でも、お腹はやめて」
そして、わずかな躊躇いののち、静かに語を継いだ。
「赤ちゃんがいるの」
そのヒトミの発言は、どこか知らない国の言葉のように、脳の言語野を素通りした。
なに? 今、何て言ったんだ?
無言のままで、ボクとヒトミは見つめ合っていた。
どれくらい経ったかわからないが、ヒトミはふっと息を吐き出して、両手を前に掲げた。
「これ、外してもらっていい?」
手錠の南京錠を外しながら、ボクは訊いた。
「いつわかったの?」
「一週間くらい前に、病院で調べてもらったの」
それを聞いた時、頭の奥の方でカチカチと音がしたような気がした。ドミノが順番に倒れていくような。歯車がいくつも噛み合っていくような。ジグソーパズルのピースが次々埋まっていくような。
妊娠。
それがわかったから、ヒトミはボクのことを親に紹介しようとしたのだ。
妊娠。
それがわかったから、階段を駆け上がることなく、慎重に一歩ずつ上がってきたのだ。
妊娠。
それがわかっていたから、お腹をつねろうとしたボクを突き飛ばしたのだ。
熱く滾るような納得が、胸の中心からドクドクと全身に拡散していく。
そうか。そういうことだったのか。
ヒトミはボクのことを否定したわけでも、拒絶したわけでもなかったのだ。
ただ、守りたかっただけだ。ボクとヒトミの間にできた赤ちゃんを。
「ヒトミ……」
ボクから言おうと思っていた。
一緒になろうと。
ボクが決定し、ヒトミがそれに従う。
しかし、ヒトミはボクの言葉を遮り、謝罪した。
「ごめんなさい」
平均より小さめな目尻の下がったヒトミの瞳から、大粒の涙が零れていた。
泣いている。ボクの大好きな、ヒトミの涙。
しかし、不思議なことにこれまでのようにはボクの心は震えなかった。
別に謝らなくてもいいのに。ボクは口に出さないままでヒトミを許していた。突き飛ばしたことの理由はわかったのだから。
「今までずっとガマンしてたんだけど、もう限界」
大粒の涙をいくつも煌めかせながら、ヒトミは言葉を重ねた。
「痛いのは嫌いだったけど、終わった後に優しく抱きしめてもらう瞬間だけがうれしかったの」
ボクは、よくわからなくなっていた。ヒトミは何を言っているのだろうか。
「でも、これ以上はもう無理。さようなら」
状況についていけないボクの視線の先で、ヒトミは立ち上がり、その涙に濡れた顔をボクから背けるようにして玄関のドアに向かった。
「待って」
ボクは呼び止めた。行ってしまう。喪失感。焦燥感。ボクは引き止めなければならなかった。ヒトミを。ヒトミの泣き顔を。
「心配しないで。ちゃんと堕ろすから」
いつまでも流れ落ちる涙を拭おうともせずそう言いながら、ヒトミはボクを安心させるように微笑んだ。
その瞬間、電気が走るように記憶が甦った。
初めてのデートでの、映画館でのヒトミの泣き顔。
ボクはまるでわかってなかった。ヒトミは痛みで興奮しているわけではなかった。そもそも、ボクはヒトミを泣かせる必要などなかった。ボクが惹かれていたのは、ヒトミの泣き顔ではなかった。あの時映画館で、ヒトミは涙を流しながら微笑んだのだ。ボクは泣き顔ではなく、ヒトミの微笑みに魅了されたのだ。
「待って。ヒトミ!」
駆け出していくヒトミを、ボクは追いかけて外に出た。
ヒトミは階段をすでに途中まで降りていた。
ボクは夢中で階段の手摺を掴み、飛び降りるような勢いで階段を降りた。
いや、降りるつもりでいた。
突然、手摺を強く掴んでいたはずの左手がふわりと宙に浮いた。
手摺が外れたんだ、と気付いた時にはボクの全身が一瞬宙に浮かび、世界が回転した。
膝と、腰と、肩に順番に痛みが襲い掛かった。ヒトミが好きだと誤解していた、痛み。
老朽化していた階段の手摺が壊れたのだと理解したのは、地面まで転げ落ちた後だった。
ヒトミ。
ようやく捉えたヒトミの姿は、小さくなっていく後姿でしかなかった。
ガガガガン、と鳴っている衝撃音の残響は、これまで聞こえたどの階段の足音よりも、醜い音だとボクは思っていた。
(了)
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