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【短編小説】はじめてのおくりもの(2/6)

 ワン、なんて軽やかに鳴いてくれれば親しみも持てそうなのに、そいつはどこか濁った瞳で、胡散臭そうに、そして面倒臭そうに、無言のままボクを訝しげに見上げていた。
「じゃ、お気をつけて」
 そういうと、オバサンはそそくさとその場を離れていった。
 あとには、ボクとそいつだけが残された。
 とりあえず、しゃがんでみた。
 茶色い、モジャモジャ。というか、ボサボサ。潤いもしなやかさもなく、見る者をもれなくみすぼらしい気持ちにさせてしまう種類の、それは毛並みだった。
 犬だね。
 誰にいうでもなく、ボクは胸の中でだけそうつぶやいた。
 うん。犬だ。
 こう見えても、ボクは犬には詳しいんだ。別に、スコティッシュなんとかとか、なんとかハウンドとかっていう種類に詳しいわけじゃないよ。なんていうんだろ。犬の生態に詳しいんだ。尻尾を振ってるとうれしいんだな、ってわかったりとかね。だってウチでも前に、犬を飼っていたからね。ボクは犬が好きだし、犬だってボクのことが好きなんだよ。きっと。
「おい」
 目の前のそいつに、ボクは呼びかけた。
「お前はいったい、何してるんだ?」
 茶色いモジャモジャは、無言のままペロリと舌を出した。
 まるで、お前こそ何してるんだ、といっているようだった。
 首輪はしていない。捨て犬なのだろうか。でも、それだけじゃない。何だろう。この、存在そのものに刻み込まれたようなみすぼらしさは。
 理由を探るべく、ボクはじっと茶色いモジャモジャを見つめた。
 モジャモジャも、じっとボクを見返した。
 微塵も生気を感じさせない、濁った瞳で。
 そうか。
 こいつ、年寄りなんだ。
 モジャモジャというか、ボサボサというか、バサバサな感じの毛並み。感情の起伏を窺わせない、くたびれたビー玉のような瞳。一度座り込んだらてこでも動かなさそうな重たいお尻。
 有無を言わさぬヨボヨボっぷりだった。
 やれやれ。
 ボクは少しだけ肩を竦めた。
 年寄りってキライなんだ。なんていうか、こう、存在する理由、みたいなものがないように思えちゃうんだ。そんな言い方するとみんなに怒られちゃいそうだけどさ。でも実際、そうなんだ。
 でも、こんなことボクがいってるなんて、栞にはナイショだよ。あいつは、人の悪口みたいなのを、すごく嫌がるんだ。でもそれって、逆よりいいと思うんだよね。むしろ、素敵なことなのかもしれない。
「じゃあな。バイバイ」
 そういって、ボクは年寄りのモジャモジャに背を向けて歩き出した。
 でもね、気配がしたんだ。
 すぐさま、ボクは振り向いた。
 そしたらそいつは、急に立ち止まったボクの足に濡れた鼻をぶつけそうになって、恨めしそうにボクを見上げたんだ。
 もしかして。
 ボクはそいつを見下ろしたまま三歩ほど進んでみた。
 そいつは、のっそりとボクに近付き、ボクの足元でピタリと停まった。
 もしかして、お前。
 再び、しゃがみこむ。
 ボクについて来る気か?
 茶色いモジャモジャの年寄り犬は、面白くもなさそうに水平方向にボクを見返していた。
 こんなとき、キミならどうする?
 ボクは、ついいっちゃうんだ。
 まあいいか。
 いつもの、ボクの口癖。
 ボクはこんなモジャモジャに関わっているヒマはないんだ。
 早く、栞のところに行かないと。
 ボクはわかってるんだ。
 いろんなことはわかってないんだけど、ホントに大事なことっていうか、本質はわかってるんだ。
 でも大人たちはそういうことがわかってない。
 わかってないことだけがわかってて、ホントにわからなきゃいけないことはわかってるってことがわかってないんだ。
 大人はボクをバカみたいに扱うけど、きっと大人のほうがわかってないんだよ。
 キミはそう思わないかい?
 栞の意見も聞いてみたいな。
 早く行かなきゃ。
 それこそが、ホントに大事なことなんだ。
 だからボクは、気にしないことにした。年寄り犬が後をついてくることなんて。
 現在地ではなく、目的地。
 もしかしたら、お前も。
 ボクがしゃがんだまま顔を傾けて目を覗き込むと、老犬もこちらの視線を真正面から受け止めた。
 お前も、目的地が欲しいのか?
 老犬は、返事をするみたいに乾きかけた鼻をフンと鳴らした。
 しゃがんでいると、アスファルトからの熱が何倍にも感じられる。まるで、炭火で炙られているスルメの気分だ。ボクは手の甲でおでこを拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
 まあいいや。好きにしな。
 駅に向かって歩き出すと、老犬もぴったりと後をついてきた。
 さっきの人のよさそうなオバサンに聞いた道順に沿って歩いて行こうと思ったが、はたと立ち止まる。
 あれ?
 この交差点、どっちに行けばいいんだっけな?
 ボクにはこういうことがあるんだよ。
 ついさっき聞いたはずのことを、うっかり忘れちゃったりするんだ。
 いわれたことがあるよ。
 ポンコツってさ。
 誰にいわれたんだっけな。
 白い服を着たきれいな女の人じゃなかったかな。
 どうせポンコツなんだからほっときゃいいのよ。
 みたいなことをさ。
 さすがにそのときはボクも傷付いたよ。
 なんだろうね。
 頭の悪い子どもにいわれても何ともないことが、きれいな女の人にいわれるとひどくガッカリしちゃうことってあると思うんだよ。
 それってきっと、本当のことだからなんだろうね。
 ボクはポンコツなのさ。
 まぎれもなく。
 どうせ、お前もそうなんだろ?
 老犬を、見下ろす。
 老犬は、見られていることなど知ったこっちゃないというかのごとく、のっそりと歩を進めている。
 ポンコツペアだって、悪くないよな?
 あてもなく歩きながらそう思っているボクの視界に、駅の方向を示す小さな青い看板が飛び込んできた。
「ほら、やっぱり」
 ボクは思わず、老犬に向かって笑いかけた。
「ポンコツだって、悪くないじゃん」
 老犬は、もちろん何もいわずに、ボクをじろりと見上げただけだった。
 地下鉄の駅に向かう階段を、老犬と一緒に下りていく。
 券売機の前で目的の駅を探す。そこで初めて、ボクはここがどこなのか知った。家から一〇駅も離れている。どうしてボクは、こんなところにいるんだろう?
 かなりの時間、ボケッと立ち尽くしていたのかもしれない。
 事務室から制服を着た駅員が駆け足で近寄ってきた。
「どうかされましたかぁ?」
 若い男性駅員は人懐っこい笑顔を浮かべていたが、ボクの足元を見るなり声を裏返らせた。
「ちょ、ちょ、ちょっとお客さん。困りますよぉ」
 駅員の視線の先には、老犬がどっしりと腰を下ろしていた。
「こんな大きな犬を連れて電車には乗れませんよ。ほかのお客様のご迷惑にならないよう、ペットはキャリーケースに入れてもらわないと……」
 責めるというよりは、困った感じの、駅員の口調。
 それでもボクは、叱られた時独特の、心細いような情けないような、居たたまれない気持ちになった。
 ごめんなさい、とか、すみません、みたいな言葉を口の中でもごもごさせながら、ボクはすごすごとその場を去った。
 ものすごく苦手なのだ。
 ボクは、誰かに叱られることが。
 まあね、叱られるのが好きなんて人間はこの世にいないだろうけど、中には叱られることを何とも思わないタイプっているんだよ。例えば、妹の栞なんかがそうなんだよ。誰かに叱られてもへっちゃらで、場合によっては叱ってる相手を逆に叱り飛ばしたりするんだよ。そういうのってすごいよね。
 でも、ボクはダメなんだ。
 ガックリきちゃうんだよ。
 だからボクは、慌てて地下鉄の駅から逃げ出したんだ。
 ボクはもともと、足の速いタイプなんだ。最近はそんなに全力疾走することなんてないんだけど、周囲の大人が走るボクを驚いた様子で眺めているってことは、なかなかのスピードってことなんじゃないのかな。それともやっぱり、ボクの隣でツラそうに走っている老いぼれ犬が珍しいのかな。
 地上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていこうとしたんだけど、どういうわけか、ボクは息切れしちゃったんだ。
 胸を押さえて、呼吸を整える。
 おかしいな。なんだか走れないや。
 肩どころか全身を上下させて荒い呼吸を繰り返すボクの隣で、老犬は恨めしそうにボクを見上げていた。
 そうだ。何も逃げることないんだ。
 ようやく、息が落ち着いてくる。
 追われてるわけじゃないんだし、ゆっくり行けばいいんだ。
 ボクは老犬を見下ろした。
 老犬も、ペロリと舌を出してからボクを見上げた。
 不思議な気持ちだった。
 この老犬を追いやれば、普通に地下鉄に乗って家に帰れるはずなのに、そのことはちゃんとわかっているのに、どうしてもそうする気にはなれなかった。
「なあ」
 階段の途中でしゃがみこみ、ボクはそいつに話しかけた。
「お前、名前は何ていうんだい?」
 そいつは再び、ペロリと舌を出した。
「そうか」
 閃いた。
 どこかでカチリと音がした。
 歯車が噛み合うような。鍵穴の中でうまく鍵が回ったときのような。
「お前の名前は、ペロだ」
 そう。ボクは思い出したんだ。
 前に飼っていた犬の名前。
 そいつの名前もペロだった。
 ボクは思わずうれしくなった。
 ペロって名前を付けたこと、栞にも教えてあげよう。きっと喜んでくれると思うな。
 でも、たった今名付けられた目の前のペロは、そのボクの画期的な発想に感激した様子もなく、眠そうにくあっと大口を開けていた。

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