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【短編小説】はじめてのおくりもの(3/6)

 この夏の最高気温を更新。
 毎日流されるニュースの中で、毎日そういっている気がする。
 額から頬を伝って顎の先端に落ちていく汗の玉を、手の甲で拭う。
 どれくらい歩いただろうか。
 息が乱れているような気もするけど、一休みなんてしたくはなかった。
 とにかく早く、栞に会わなくちゃ。
 そして、誕生日のお祝いをいわなくちゃ。
 栞の嬉しそうな笑顔を想像するだけで、疲れなんて飛んでいく気がする。
 けど、そんなボクの足に、なにかモジャモジャしたものがドンとぶつかった。
 なんだよ、ペロ。
 声には出さずそのもじゃもじゃとした老犬を覗き込むと、ペロは勘弁してくれよ、と呟くようにペロリと舌を出した。
「どうかしたのか?」
 そんなボクの問い掛けを気にした様子もなく、ペロはのしのしと歩道を進み、沿道の街路樹が植えられている土の上にどすりと寝そべった。
 てこでも動かない。全身からそんな決意を表明しているようだった。
 やれやれ。
 仕方なくボクは、ペロの鼻先でしゃがみ込んだ。
 これだから、年寄りってイヤなんだよな。
 年寄りは、あらゆる能力が低い。体力とか知力とかいった人間としての基本的なものだけじゃなくて、瞬発力や集中力といった限定的なものや、聴力や視力といった感覚的なものまで、生まれ持った能力が軒並み減衰していっている。いわば、残り滓だ。
 年寄りなんて、生きてる意味がないと思うんだ。
 こんな言い方、不謹慎かな? でもきっと、それがボクの本音なんだ。
 この先、楽しいことなんて何もなくて、苦しいことばかりが待っている人生ってどういうものなんだろう?
 ボクには想像もできない。
 街路樹の影で舌を出すペロを見ながら、頭を撫でてみた。
 わずかに目を細めるペロは、幸せそうにも見えた。
 そんなボクに、誰かが頭上から声をかけた。
「お散歩ですか?」
 見上げたボクは、青い制服を見て急にドキドキしてきた。
 お巡りさんだった。何でかわからないけど、お巡りさんってどうにも苦手なんだ。悪いことなんて何もしてないのに、過去に犯した些細な罪を責められるような気がしちゃうんだ。
 だからボクは、今もちゃんとしゃべれなくなってしまった。
「大丈夫ですか? 気分悪くなってませんか?」
 お巡りさんは、やたら丁寧にそういった。こういうのって何ていうんだっけ? インギンブレイっていうんじゃなかったっけ? ボクはこういう話し方をされると、バカにされてるような気分になっちゃうんだ。
「これだけ暑いと、熱中症とか心配ですからね」
 そういうと、お巡りさんはあれ、という表情を浮かべた。
「リードが付いてませんね?」
 お巡りさんは、ペロに首輪や紐をつけていないことを注意しているのだろう。
 そんなこと、思いもしなかった。
 もしかして、紐も付けずに犬を連れて歩くのは、犯罪だったりするのだろうか。
 カンリシャセキニンとか、そういうやつだ。
 ボクは口の中だけでモゴモゴとすみませんとかそういうことをいいながら、ペロの尻を叩いてその場を離れた。
 首やら腋やらが汗でベトベトしていたが、それが冷や汗なのかはわからなかった。
 慌てて逃げだしたボクを、お巡りさんは追っては来なかった。
 不審者扱いしたのではなくて、単純に暑い中でへたり込んでいるボクたちを見て、心配しただけだったのだろう。
 ただ、リードがない状態でペロを連れていると、これからも同じことが繰り返されてしまうのかもしれない。
 これ以上、お巡りさんに話しかけられたりするのは勘弁だ。
 何かいいアイデアはないものかと頭をひねりながら歩いていると、工事現場に出くわした。
 赤く点滅する誘導灯を持った交通整理員が、かったるそうに片側通行の誘導をしている。
 その傍らに、黄色と黒のトラロープが落ちていた。
 ちょっと拝借。
 地面でのたうっていたトラロープをペロの首に結ぶ。
 うん。なかなか様になっているんじゃないか?
 ペロは何もいわずにボクを見上げていた。
 イヤがってないみたいだから、まあいいか。
 でも、改めてトラロープを片手に老犬と歩き始めたとき、ボクは気が付いたんだ。
 さっきの警察官に、迷い犬ですってこいつを引き取ってもらえばよかったんじゃないだろうか。
 そう思いながら、隣をのっそりと歩くペロを見下ろす。
 けど、そんなことをしたら、飼い主が見つからなかったとき、処分されてしまうだろう。
 やっぱり、ダメだ。このまま連れて行こう。
 きっと栞も賛成してくれると思うよ。
 改めてボクは、ずんずんと歩き始めた。
 その時、ふと気になった。
 お腹がすいてるんじゃないだろうか。
 ボクじゃなくて、ペロのことだ。
 こいつは、エサが欲しいからボクについてくるんじゃないのかな。
 さて、何を買ってあげようか。
 コンビニを探しながら、ボクは考えたんだ。
 昔、家でも飼い犬にあげていたカリカリがあるといいんだけど、高級な犬用缶詰しか食べなかったらどうしよう。
 足を止め、じっとペロの目を見る。
 覇気のない、濁った黒目勝ちの瞳。
 とてもそんな風には見えないね。
 とりあえず、近くにあったコンビニに入る。ペロはもちろん、入り口近くの電柱にトラロープを巻き付けて待たせておいた。
 イラッシャイマセ、という外国人アルバイトの義務的なあいさつを背中に受けながら、店内を見て回る。けど、ドックフードらしいものは、缶入りの高いものしか見つからない。とりあえず、レジ前に並んでいたフランクフルトを二本買った。
 オシボリツケマスカ、という質問に、お願いしますと答えながら、シャツの内側に首からぶら下げてあった財布を取り出し、小銭を払った。少しだけど、財布の中にはお札も入っていた。財布を首から紐でぶら下げているなんて小さな子どもみたいで変だと思っていたけど、前からずっとこうしていたようで、使ってみるとしっくりくるように思えた。
 コンビニを出ると、すぐ目の前に小さな公園があった。電柱の根元に彫像のようにうずくまるペロのトラロープを持ち、お尻を軽く叩いた。くあっと大きなあくびをしてから、ペロはのそのそと動き出す。
 僕らは誰もいない公園の中に入った。
 ベンチに座ると、ペロは何も言わずにボクの前におすわりした。長い舌を出したまま、物欲しげな上目遣いでボクを見上げている。
 フランクフルトを袋から出し、串を抜いてペロの前に置いた。
 さも当然とばかりにそれにかぶりつくペロを眺めながら、ボクは大事なことにようやく気が付いた。
 そうだ。栞に会うなら、誕生日のプレゼントを買わないと。
 せっかくの誕生日なのに手ぶらで栞に会うなんてクールじゃないよ。
 そりゃ、栞のことだから、プレゼントがなくったって怒ったりはしないだろうけど、それじゃボクの、兄としてのコケンにかかわるよ。コケンって何のことかはよくわからないけどさ。
 ペロが、自分の口元を舐めながら再びボクを見上げる。
 あっという間に食べてしまったらしい。
 ボクは、持っているフランクフルトに目をやった。そういえば、自分で食べるつもりだったけど、一口も食べていない。
 ボクはもう一本のフランクフルトも、串を抜いてペロの前に置いた。
 たいしてお腹は減っていない。
 そもそも、いつご飯を食べたんだっけ?
 まあいいや。
 いつものように、ボクは胸の中でつぶやいた。
 ボクはこだわらないんだ。大事なのは過去じゃなくて未来。必要なのは現在地じゃなくて目的地。
 そんなことを思いながら、一心不乱にフランクフルトを咀嚼しているペロを眺める。
 最初は迷惑でしかなかったペロの存在が、不思議と今は愛おしいものに思えていた。
 旅は道連れってやつかな。
 妙な一体感が芽生えている。もちろん、ボクだけのものだろう。一方通行の親近感に何の意味があるかはわからない。
 またしてもあっという間にフランクフルトを食べ終えたペロは、ボクからの親近感を喜ぶ素振りも見せず、くあっとあくびをしていた。
 そういえば。
 ボクは思い出す。
 栞へのプレゼントを決めなきゃ。
 そのことを思いだした途端、ボクはなんだかうれしくなってきた。
 誰かに贈り物をするなんて、はじめてのことじゃないかな。うん。プレゼントっていうより、贈り物っていうほうが、なんだか気持ちが伝わる気がするよ。いい言葉だよね。贈り物って。
 ペロは、ベンチに座るボクの目の前でペタリと寝そべった。
 あれ? さっきペロにあげたフランクフルトって、ボクからの贈り物になるのかな。
 頭をもたげた疑問を、ボクはすぐに打ち消した。
 いやいやいや。さっきのは餌をあげただけで贈り物とは呼べないよね。やっぱりボクの生まれて初めての贈り物は、栞への誕生日プレゼントだよ。
 ボクはベンチから立ち上がった。
 さて、贈り物は何にしようか。考えるだけでワクワクする。
 かわいいキーホルダーかな。おしゃれなティーカップかな。
 足元に寝そべったまま、ペロは急に立ち上がったボクを恨めし気に見上げていた。
 栞の待っている家に帰る途中で、何かいい贈り物がないか、探しながら帰ろう。
 ペロにつなげたトラロープの端をそっと引っ張ると、ペロはめんどくさそうに起き上がり、再びくあっと大口を開けてあくびした。
 元気が出てきた。お腹の底からエネルギーが湧いてくる。どこまでもずんずん歩いて行けそうだった。
 公園を出て、真っ直ぐに進む。
 方角は何となくわかっている。地下鉄の駅に沿って進んで行けばいいのだ。正直、ここがどこなのかはよくわかっていないけど、大事なのは現在地じゃなくて目的地なのだ。ボクは細かいことは気にせず、家に向かってずんずんと突き進んでいった。
 陽射しは相変わらずじりじりと照りつける。フライパンに割り入れられたばかりの目玉焼きのような気分だ。吸い込む空気自体が沸騰しているような灼熱の世界の底で、もがくようにただ足を前に進める。
 こんな状況、栞が知ったら心配しちゃうかもしれないけど、ボクはそれほど苦痛には感じなかったんだ。むしろ、色んな考えが頭から消えていって、集中してるみたいな気がしてくるんだよ。ボクはひたすら、前だけ見てずんずん進んで行ったんだ。
 その時、がくんとボクの手が何かに引っ張られた。違う。引っ張られたんじゃない。ボクが引っ張ったんだ。ペロが急に立ち止まったから、脇目も振らずに前へ進んでいたボクは、ペロの首に結んであったトラロープを強く引っ張ってしまった。
 不満げに、ペロが低く唸る。
「ごめんごめん」
 立ち止まったペロの元まで二歩ほど戻り、そっとあごの下を撫でる。ごわごわとした、手触り。ふんとペロは鼻を鳴らした。
 その時ふとペロの向こう側にある店が目に留まった。
 ビルの一階にある、小さな花屋。
 ボクはピンときた。
 はじめての贈り物に、花ってピッタリだよね。
 ペロは、そんなボクの心の声が聞こえたかのように、のっそりと花屋へ向かった歩きだした。
 まるでペロに促されるようにして、ボクはその小さな花屋に入ってみた。

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