【短編小説】はじめてのおくりもの(5/6)
眩い朝の陽射しが乱暴にボクの眠りを引き裂いた。心地よい目覚めとは言えなかったが、特に不満はなかった。
ボクは、低血圧ではないので、朝には強いんだ。
目が覚めた瞬間は自分がどこにいるのかわからなくなったけど、埃くさい臭いや、腕に当たるごわごわしたペロの毛の感触で、ボクは自分が河川敷の捨てられた軽自動車の中で一晩寝ていたことを思い出した。
「おはよう」
隣で丸まっているペロの背中を撫でながら、そう声をかけた。
ペロは、片目だけを器用に開けてボクをじろりと眺め、ぜいぜいと荒い息を吐いた。
「おい。大丈夫か」
寝そべったままのペロの脇腹をゆさゆさと揺らしたが、ペロは力なく目を閉じていた。
何か、マズい気がする。
年寄りのペロは、もしかしたら深刻な状態なのだろうか。
自分の胸のあたりに冷たいしこりのようなものを感じる。
死んじゃうのかもしれない。
ボクは、死というものについて考えると、見えない冷たい手に心臓を掴まれるみたいに不愉快な気分になるんだ。例えば、道路の脇で血まみれのネコが動かずにいるのを見たときや、金魚鉢の中の金魚が逆さに浮かんでいるのを見たときなんか、寂しいような悲しいような、たまらない気持ちになってくるんだ。
早くウチに連れて帰ろう。栞に相談して、動物病院で診てもらおう。
一晩過ごした捨てられた軽自動車から出て、早くウチに帰ろうと思った。
けど、ペロは後部座席から動かない。
ボクは、できるかどうかわからなかったけど、ペロを抱えて帰ることにした。
獣くさいボサボサのこの生き物は、思っていたより大きく、そして重かった。
ボクの力では抱っこして運ぶことなんてできそうもない。背負うのだってムリそうだ。できるのはせいぜい、足を持って引きずるくらい。でも、そんなことできるわけがない。
どうしたらいいんだろう。
捨てられた軽自動車の脇で、途方に暮れる。
ま、いっか。なんてペロを置いていくことなんて絶対にできない。そんなことをする人間を、ボクは軽蔑する。ボクは自分で自分を軽蔑するのは絶対に嫌だった。
何かの救いを求めるように漂わせる視線の先で、河川敷に置き去られたままになっている錆び付いたスーパーマーケットのカートが目に留まった。
これだ。と思い、ボクはカートを捨てられた軽自動車の脇まで持ってきた。
錆び付いてはいるが、車輪はちゃんと回っている。うん。これならボクでも運んでいけそうだ。
けっこう苦労しながら、ボクは車の中から動かないペロを抱きかかえ、錆びたカートの中に乗せた。ボクはぜいぜいと荒い息を吐き出した。こんな肉体労働みたいなこと、ボクは得意じゃないんだ。
カートに乗せられたペロは、中で丸まったまま、鳴くこともなくボクを見上げていた。
ベビーカーの赤ちゃんほど乗り心地はよくないだろうが、特に不満気な様子もなかった。
ボクは河川敷から、錆びたカートをガラガラと押しながら堤防道路に上がった。
お腹は空いているのかよくわからない。ただ、どこまででも歩いて行けそうなほど、エネルギーがズンズンと湧いてきていた。
進むべき方角は適当だったが、とにかく進んで行けば自宅に辿り着くと信じて疑わなかった。
ボクはガラガラと大きな音を鳴らしながら、ペロを乗せたカートを押して堤防道路のアスファルトをひたすら歩いて進んだ。
何だろう? 変な感じがする。何だか、やたらと周囲の視線を浴びている気がするんだ。
ボクみたいな子どもが犬を乗せたカートを押して歩いている姿は、そんなに奇異に見えるのだろうか。
ジロジロ見られるのは苦手だった。
前にも、こんなことがあった気がする。みんながボクのことをジロジロと見るのだ。哀れむような、蔑むような、侮るような視線。どうにも居心地の悪くなったボクは、歩くスピードを速めた。ガラガラとカートを押す音がさらに高く、大きくなる。
ボクは、急いで家に帰ろうとしているはずだった。そのことは覚えてる。分厚い靄の向こうの灯台の光のように。薄ぼんやりとした記憶だけれど。でもボクは、自分が急いでいる理由がわからなかった。
カートの中で丸まったまま苦しそうに荒い呼吸を繰り返すペロを、早く動物病院に連れて行きたいから急いでるんだっけ? いや、違うよ。ボクは独り、無言のまま頭を左右に振った。どこか知らない場所にいたボクには、急いで帰る理由があったんだ。ペロに出会う前から、ボクは家に早く帰ろうとしてたんだ。でも、それがなぜだったのかがわからないんだ。
とにかく早く帰って、栞に訊いてみよう。
ボクは錆びたカートを押すスピードを速めた。
ペロは、力なくカートの中で丸まったままだ。
死ぬのかな。
不意に、ボクはそう思った。そして、とても悲しい気持ちになった。
老いというのは、死ぬまでの準備期間なんじゃないだろうか。ペロの生気のない黒目勝ちの瞳を見ながら、ボクはぼんやりと考えていた。身体のいろんな機能が衰え、それまでできていたことができなくなってくる。その過程で、死を受け入れていくということなのだろうか。
だとしたらボクは、そんな猶予期間なんていらない。
老いを感じるくらいなら、自殺したほうがいい。
むしろ、国民全員がそうすべきじゃないのかな。
例えば、六十五歳になったら強制的に自殺させるとか。そうしたら、医療費の問題も年金の問題も解決するんじゃないかな。栞にも、意見を聞いてみよう。
あれ? 栞?
その時、ボクは思い出した。
そうだ。栞だ。今日は、栞の誕生日なんだ。あれ? 今日じゃない。昨日なんだっけ。
その時、またボクは思い出した。
花束!
何もない両手を、ボクは見下ろして途方に暮れる。
おかしいな。栞にあげるはずだった花束がなくなっている。どこでなくしたんだろう。
後ろを振り向いてみる。けど、そこには何もない。過ぎてしまった思い出のように。もう取り戻せない。ただ茫然と立ち尽くす。
そんなボクの肩を、誰かがトントンと叩いた。
振り向いたボクに、若そうな警察官はにこやかに微笑みかけた。
「こんにちは。暑いですね」
まただ。ボクに向けて、異常に丁寧な口調で話しかけてくる。なんだかバカにされている気分。インギンブレイ。
ボクはソワソワした。前と一緒だ。警察官という存在が、ボクはすごく苦手なんだ。
「どちらへ行かれるんですか?」
「家へ帰ります」
「お家はどのあたりですか?」
「………」
答えようと思ったのに、返事が浮かんでこなかった。頭の中心が空っぽになったみたいに、脳内から言葉が消え去っていた。
「お名前をお聞きしてもいいですか?」
「………」
どうしちゃったんだろう。自分の名前を聞かれているのに、その名前が出てこない。何か言わなきゃと思っても口をぱくぱくさせるだけで何も言葉にならない。ボクはどうしようもなく不安になった。
その時、ボクに話しかけてきた警察官の背後からもう一人警察官が現れ、警察官同士で、小声で会話をし始めた。捜索願、服装と特徴が完全に一致、犬は情報にない、とりあえず親族のところに連れて行く。断片的な会話の切れ端がボクの耳に微かに届いてくる。ますますボクの不安が高まり、濃密に胸に蓄積する。
ドキドキする。どうにも苦手な警察官二人に睨みつけるように見つめられて、ボクは息苦しくなってきた。頭がだんだん真っ白になっていく。
だから、警察官にパトカーに乗るように促されたときも、何も考えられずにボクは手を引かれるまま、その後部座席に乗っていた。そのボクの隣に、グッタリしたままのペロも乗せられた。
警察官二人は運転席と助手席にそれぞれ座り、それから二十分ほど無言のままパトカーを走らせた。
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