いい加減、BeRealやりなよ!
最寄り駅の周辺がポケモン頻出地帯なのかわからないけれど、よくポケモンGOをやっている人達がスマホ片手に群がっている。首を45度くらいに傾けて、スマホを凝視する人々が同じ場所に集まっているのを、私は内心気味悪がった。
ポケモンGOといえば、引きこもるヲタクを外に連れ出したなんてポジティブイメージで語られることはあるが、私からしたら近所のポケモントレーナー大量発生の方が、気持ち悪く思えた。
とはいえ私はポケモンのファンだ。SVのランクマッチを細々とやっている。ポケモンGOでポケモンを捕まえれば、それをSwitchに持ってきてランクマにも使えるので、ポケモンGOをやる個人的な趣味上のメリットもある。
しかし、私はポケモンGOをやりたくない。あの有象無象の中に取り込まれてしまいたくない。別に、ポケモンGOをやっているからといって有象無象になるわけではない。これもまた1人で細々やっていれば良いのだ。だが、私もかのトレーナーら同様、あの群れに入らないでいられる自信が確かでは無い。一度アプリをインストールしてしまえば、私は珍しいポケモンを求めてxx駅の前の広場に行きたくなってしまうだろう。アプリをインストールするところから、私は群衆の一となってしまうことを恐れている。
似たような理由で、最近流行りのBeRealも敢えてインストールしていない。通知される制限時間内に写真を共有しなければならない、というシステム上の義務感に囚われることが、恐るべき有象無象に吸収である、と。通知に言われるがままに写真を投稿するのは、BeRealに操られているみたいで嫌だ。私は私の意思で写真を撮り、私の意思で伝えたいと思う人にだけ伝えたい…。
有象無象になるのが怖い。「みんなと一緒」になりたくない。それが私の今まで抱えてきた「逆張り精神」の根幹にある感情だったのかもしれない。「みんなと一緒」になることは、「自分」を殺すことと一緒なんだ。
多分この恐怖心は「みんなと一緒」になれない「自分」を正当化するための自分なりの論理だ。私は無意識のうちに「みんな」を「自分」と対立させている。「みんな」と同じになれない時に感じる生きづらさの部分を「自分」だと思って愛そうとしたのだと思う。ついたしまった傷を直そうと念じたって、願ったって、どうしようもないから、開き直ってそれが勲章だと無理やりな自己肯定の努力をするのだ。ただ、心の傷はそんな雑な方法で癒えはしない。
そして、ポケモンGOもBeRealもやらない私だけど、Twitterはめちゃくちゃにやる。なんならツイッタラーとしてミームを他のインターネットの住人と共有し、インターネットへの帰属感を強く持っている。
でもあれ。これって矛盾していないか。「みんなと同じ」インターネットミームを使うことも、「みんなと同じ」場所に行ってポケモンを捕まえたり、通知で写真を共有したりすることも。
結局、私は自分が所属しない(できない)コミュニティの同一性にだけ捻くれた見方をして、所属「しない」という新しいアイデンティティを創作していただけじゃないか!
じゃあ、なーんだ。私だってポケモンGOやBeRealやったら、自分が自分以外の「みんな」に吸収されるんじゃなくて、「みんな」と同じであることが自分のひとつになるだけじゃん。
そうじゃんそうじゃん。私は外部を敵対視して勝手に斜に構えてただけなんだ。じゃあポケモンGO入れなよ、BeRealやりなよ。
うーん、嫌かな!
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