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まあまあな人生だった。ナゼか? ①

3回ほど前に書いた「未来を作る」がSNSで何故かシェアされてフォロワーが急に増えた。それで何か役に立つようなことが書けないかと思ったんだがさっぱり思いつかないうちにまだジワジワとフォロワーが増えてきている。

何か書いた方がいいんだろうという緩やかなプレッシャー。

そんな中、新型コロナウィルスでMr.不要不急な私はいろんな仕事のキャンセルを喰らいすっかりヒマである。さらにそんな中、大学の一つ先輩と一つ後輩が急死した。そうだよな。60代で突然死は珍しいことじゃないぞと。

そこで人生を振り返ることにした。振り返るとまあまあ楽しい人生だったなと。さらに有難いことは今も楽しいのだ。途方もない夢もある。(だから今まで人の人生を映像にするLIFE VIDEOなんて会社は立ち上げたくせに自分の人生を振り返るなんてことに興味はなかったんだが)


手を伸ばしてみたら、それがよかった

こういう小見出しをつけて、自分の人生のターニングポイントだったと振り返れるようなことを書いてみようと思う。(役に立つのか?そんなもの知るか!)
大学から日本テレビに入ったのは1979年。なんと41年も前だ!配属は編成部だった。ガッカリした。当然テレビ局に入ったのは番組制作をしたかったからだから。まず会社は僕を雇っているんであって僕の希望なんて聞いてもらえないもんだと思い知った。ではどうするか?聞いた。「どうやったら制作現場に行けますか?」「う〜ん企画書書けばいいんじゃない?」
当時は今みたいに企画募集をしていなかった。募集していないものをどこに持っていけば?仕方がないこれも聞いた。制作デスクみたいなところがあった。とにかくそこへ毎週月曜日に番組企画書を書いて持っていった。それを習慣にした。毎週1本。1ヶ月で4本。1年で50本。2年で100本。3年目108本目に出した企画があるプロデューサーの目に留まった。その人に制作に引っ張ってもらった。加藤光夫さんという人なのだが、この人が後に「元気が出るテレビ」を始めたのでテリー伊藤という師匠に出会い、そのあともこの人の元で萩本欽一というもう一人の師匠に会うことになる。さらにこの人が編成部長の時に「土屋!明日までになんでもいいから企画書持って来い!」と言われて一晩で考えて持っていったのが「進め!電波少年」である。41年前に誰にも頼まれていない『毎週企画書を持っていく』を始めなかったらこの人生はなかったと思うのだ。
若い時に組織の中でできることはそんなにない。組織のルールも覚えなくてはならない。それに手一杯になるか?順応も大切かもしれない。でも自分の夢は忘れない方がいい。そのために今できることを今始める。

手を伸ばさないと誰もその手をつかんでくれない。

あの時のあの決断、それが未来につながるなんて全く思えなかったけれど間違いなくそうだったんだなと振り返ると思う。

こんなことをこのシリーズでは書いていく。

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