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【読書】虚ろなまなざし(筆者:岡真理)

はじめに

 このnoteの元になる作品は、一冊の本ではなく、高専時代に使用していた国語の教科書「精選 現代文B(三省堂)」の中にある評論。
タイトルは『虚ろなまなざし』。著者は岡真理さん。

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写真:『ハゲワシと少女』 

 この写真は、南アフリカ出身の青年カメラマンが、アフリカ北東部にあるスーダンという共和国で撮った『ハゲワシと少女』という作品。小さくて痩せ細った体、空腹が限界なのか、歩く気力も体力も無くなってしまったのか。そして、その子が倒れるのを待ち構えるようにして佇む、ハゲワシ。
 アフリカと聞くと、どうしても貧困という言葉を思い浮かべてしまうが、それはインターネットが普及した現代だからこその思考であり、当時は遠くの世界の現状を知るということは少なからず容易なことではなかったはずだ。そんな時代だからこそ、この”先進国では考えられない光景”を映し撮った一枚の写真は、世界中に大きな衝撃を与えた。そして後に、この写真を撮影した青年カメラマンには、ピューリッツァー賞という名誉が与えられた。

正義の話

 この一枚の写真は、世界中の人々にアフリカの貧困の現実を伝えた。
しかしそれだけでは収まらなかった。もう一度、写真を見返して欲しい。

 この写真の登場人物は、飢えに苦しむ少女と、そんな衰弱した少女を狙うハゲワシだ。しかし、この写真をさらに俯瞰して遠くから眺めるように見ると、さっきと違った光景が見えてくる。
 そう、もう一人の登場人物は、危険にさらされた少女を助けようとせず、シャッターチャンスだ!とばかりにカメラを構える青年カメラマンだ。

 このカメラマンは、賞の受賞と同時に、世界中から多くの非難を浴びることになった。それはこの写真を撮る瞬間に、少女を助けるという選択ではなく、写真を撮るという選択をしたからだった。

「写真なんて撮ってる場合じゃないだろう」「自らの娯楽で少女を見殺しにしたのか?」「なぜ助けなかったのか」「非人道的行為だ」「人でなし」

 受賞後まもなくして、カメラマン、ケビン・カーターは、自殺をした。

 私たちが少女の中に聴き取った少女の声、もし、少女に自ら語ることができたなら、語ったであろうと私たちが考える少女の言葉とは、本当にそのようなものであったのだろうか?この一件は、私たちが「それ」に投影するのが実は恣意的(*しいてき:論理性を欠き、勝手気ままで思うがままに振舞うさま)なものにすぎないこと、私たちが自分の経験から類推する限りでの、私たちが想像できる限りでの感情にすぎない、ということを物語っている。逆に言えば、私たちの想像外にあるものは、仮にそれこそが、「それ」の苦痛の原因であったとしても、私たちには見えないのである。例えば、ほかならぬ私たち自身が「それ」の苦痛の元凶である、といったようなことなどは。私たちが常に「それ」を被害者として見いだし、そこに、被害者として自分の経験を投影し、被害者として「それ」と同一化するならば、「私」が、「それ」に対して加害性をもっている、などという認識は、確かに生じえないだろう。「それ」による私たちの暴力的な主体化の問題性とは、人を時に死に至らしめるほどの、文字どおりの暴力性であるというだけではない。私たちが恣意的に投影した私たちの声が「それ」の声となってしまうことで、もしかしたら、そうではないかもしれない、他のさまざまな声の可能性を抑圧してしまうと同時に、私たちが被害者として同一化することで、もし、私たち自身が加害者であった場合に、その加害性を都合よく隠蔽することにもなってしまうだろう。難民の少女に被害者として同一化して、カメラマンを非難することで、南北構造を固定化する世界システムの中で飽食している私たち自身の姿がかき消されてしまうように。

 カメラマンが自殺したということは事実だとしても、この一枚の写真が死を選ばせたかというと、それは定かではない。もしそうなのだとしたら、カメラマンは自らが撮影した写真に殺されたことになる。もしくは、あの少女に。

 当時のスーダンは、10年規模の内戦中で、スーダン政府が国外からの取材人を締め出していたということもあって、国内の悲惨さを国外の人々が知り得るということはとても難しいことだった。そんな現状を知った同じアフリカ出身の一人のカメラマンは、きっと使命感に燃えていただろう。
 危険な場所で、過激な取材を続けることは、並大抵のことではない。カメラマン自身も、同行していた友人カメラマンを亡くしながらも取材を続けていたという。

 少女を助けるためには、どんな選択をするべきだったのだろうか。また、あのカメラマンは、ハゲワシに捕食される少女を、ただ茫然と眺めていたのだろうか。ハゲワシを威嚇して追い払うこと、少女を抱きかかえ村に返してあげること、何か食べ物を食べさせてあげること。果たしてその国に食べ物はあるのか。少女は物を食べられる状態なのか。内戦はいつ終わるのか。

 助けることが正義なのだとしたら、正義とは一体何なのか。

 虚ろなまなざしの、その暴力性や衝撃性が、センセーショナリズムに依拠している限り、それは消費されて、短命に終わらざるをえないだろう。

おわりに

 少し前に、白人警官が白昼の中、”偽札で煙草を買った男と似ている”という疑いだけで、黒人男性を数分間押さえつけ、その黒人を殺害してしまうという事件があった。この事件を機に、世界中でデモ活動や人種差別反対の声があげられた。同士の無残な姿と扱いを見て怒り狂った人々は、全人類対等な人権を求め、行動し、時に暴動を起こした。
 特に印象に残っているのは、その事件で命を落としたジョージ・フロイドさんの弟のデモ活動での叫びだ。その心の叫びは、兄を殺した白人やそれを取り巻く世界だけではなく、デモに参加する同士への嘆きでもあった。

 「デモ活動に参加する人の中には、兄が白人警官にされたように暴力をふるうことで、兄の敵討ちを果たし、みんなの人権を取り戻そうとするやつがいるが、それは間違っている。兄の死を利用して、暴れまわるのはやめてくれ。兄が最後まで手を出さずに訴え続けたように、俺たちは話し合うんだ。兄の死を無駄にしないで。」

 本評論の結びでこの投稿を締めたいと思う。

 言葉を奪われた者の声なき声を伝える。それは、言葉をもつ者の使命であるかもしれない。だが、それを自らに許す前に、私たちはいま一度、自らに問うてみるべきだろう。「声なき声」などというレトリックはそもそも、詭弁にすぎないのではないか。私たちは自分たちにわかる限りでの、自分たちが聴き取りたいものを、「聴き取って」いるだけではないのか。それは、結局のところ、私たち自身の声にすぎないのではないか。私たちが「聴き取った」声なき声を、私たちが、彼らの言葉として語る時、私たちはまさにそうすることで、実は、もしかしたら、そうではなかったかもしれない可能性を全て奪ってもいるのかもしれない、と。



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