【ひとに迷惑をかけない】の本質とは

 「ひとに迷惑をかけてはいけない」と子供のころに教わった人は多いのではないでしょうか。私もそのひとりです。もしかしたらこのnoteを読んでくださっている奇特な方のなかには、自らが親として子供に教えている方もいらっしゃるかもしれませんね。

 最近ではこの教えを受けた子供が、委縮し周りの顔色を窺うようになってしまう、という意見もあるようでもっと野放図に育てるほうが良いのではないかともいわれているそうなのですが、私はそこに疑問を覚えました。

「ひと」は「人」ではなく「他人」

 そもそもこの「ひとに迷惑をかけてはいけない」というフレーズが指す「ひと」とは誰を示しているのでしょう。単純に”人”でしょうか。
 私は”他人”ではないかと思います。「他人に迷惑をかけてはいけない」。ほら、何だかしっくりきませんか?

 何が言いたいかというと、子供に教えるべきは「人に迷惑をかけてはいけない」ではなく、「他人に迷惑をかけてはいけない」なのです。”他人”とすることで、その子の家族は対象外。すなわち、迷惑をかけるのならば他人ではなく親にかけなさい、ということを言っているのです。この意味が正しく伝わるのであれば、子供も親にならば迷惑をかけて良いのだ、と理解します。もちろん実際には、迷惑のかけ方によっては親が𠮟るべきです。しかし、迷惑をかける、叱られるの反復によって、子供は『迷惑のかけ方を学ぶ』のです。

迷惑のかけ方を知った子供は委縮しない

 親とのやりとりを通して迷惑のかけ方を学んだ子供は、幼稚園や保育所、学校に入学します。ここでは先生が親の代替となります。学生時代に何かトラブルを起こしたら、先生が親と協力して事の対処に当たるでしょう。実際には一次対処を先生が、二次対処以降を親が担うという形でしょうか。
 この学生生活を通して、親ではない第三者、すなわち先生に迷惑のかけ方を試行します。学生生活を始めるまでの間に、親を通して迷惑のかけ方を学んでいるので、先生に対しては親に対するそれよりも幾分洗練された迷惑をかけてくるはずです。
 こうして、親、先生といった”他人ではない庇護者”によって迷惑のかけ方を学んだ子供たちは、どうしても迷惑をかけざるを得ない場合において頼るべき存在を認識します。そして社会に出たときに、他人に迷惑をかけない立派な大人が現れるわけです。

立派な大人は迷惑をかけて良い相手を理解している

 ここまでの成長過程を踏んだ大人は、外から見ると誰にも迷惑をかけていない優等生のような存在に見えます。しかし、その本質は”迷惑をかけて良い相手を理解している”大人なのです。あなたに対して迷惑がかかってこないということは、その人はあなたのことを”迷惑をかけてはいけない他人”と認識しているのだと思います。
 一方、社会生活を営む上では他人にも迷惑をかけざるを得ない場面がしばしば現れます。それは自らが犯した過ちによるものだけでなく、天から降ってきたような理不尽な原因によるものもあります。こうした場面において先ほど述べた”迷惑をかけて良い相手を理解している大人”はどうするのでしょう。それは、”他人に迷惑をかける”ことです。


 話が違う、と思いましたか。
 言葉が足りていませんでした。”他人にかけていい程度の迷惑をかける”というのが正しい解釈です。親と先生という巨大な濾過装置によって、庇護者が受け入れられる迷惑がどの程度なのかを把握します。そして、その許容量に対して遥かに小さい迷惑であれば、他人であっても許容することができると理解するのです。つまりは下記のような形です。

親:最大限迷惑をかけていい存在
先生:親ほどではないが、ある程度迷惑をかけていい存在
他人:先生ほどではない程度の迷惑はかけていい存在

 こういった考え方に至ることこそ、「ひとに迷惑をかけない」の教育がもたらす最大の成果になるのではないでしょうか。
 しかし、先に述べた通り実際は「子供が委縮する」「顔色を窺う」ようになってしまうという意見が出ています。なぜなのでしょう。

親=他人、先生=他人?

 本来の形であれば、親と先生という濾過装置によって迷惑のかけ方を学んでいるはずです。しかし、親や先生を迷惑をかけてはいけない存在と認識しているのであれば、迷惑のかけ方を学ぶ場面を逸してしまいます。その結果、どこにも迷惑をかけたことのない大人が誕生します。”迷惑のかけ方を知らない”大人です。
 どこにも迷惑をかけたことがないのならば、当然外部に出してよい迷惑の程度がわからないので、周りの様子を窺いながら当たり障りのない生き方に終始することになるでしょう。

自分に迷惑をかけるな、と子供に言っていませんか?

 ここまで辛抱強く読んでいただいた方の中には、親だって、先生だって人間だし……といった意見を持つ方もいると思います。というか、当然だと思います。
 しかし現時点においては、子供にとって親や先生が最後の拠り所なのです。社会的にはもっと拠り所を増やすべきだという主張があるのは事実ですが、その理想が現実に実装されるのはまだ遠いでしょう。何故なら子供が生まれたときに最初に認識するのは親であり、親から離れた後に最初に庇護者として認識するのは先生だからです。たとえそこに、代行するNPOのような存在が現れたとしても、つまりは代行にすぎないのです。
 ですからどうか、「自分に迷惑をかけるな」という意図で「人に迷惑をかけるな」という教育は避けていただけないでしょうか。
 「他人に迷惑をかけるな、迷惑をかけるなら自分にしろ」という心持ちで、教育していただければ幸いです。

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