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激動の外側で

信仰度★★☆☆☆

朝の神殿掃除で上段を拭いている私の背中を、生まれたばかりの陽光がやさしく照らしました。(おお、なんかそれっぽいぞ!(/・ω・)/)

おぢば(奈良県天理市)よりはるか東方にあるこの教会には、東側の正面玄関から神殿に向かって朝日が差し込みます。神殿掃除の時間は一年中固定なので、朝日が差し込む時間が掃除の時間に重なるのは、ちょうどこの時期だけです。期間限定イベントですね。

それまで私らより遅ようさまだった太陽が、この時期から私らに追いついて、そのうち私らより先に起きるようになります。

今でこそ、私たちは地動説を是として暮らしていますが、それでも日常的に「日が昇る」とか「日が沈む」とか言います。地球の方が動いているという事実は事実としても、「日が昇る(様に見える)」という人間の認知そのものが覆るわけではありません。そう思うと、巨視的な天体現象がどうであれ、人間にとってはいまだに動いているのは太陽の方で、人間がそう認知するようにこの世界はできているのだと私は思っています。

こういう考えは少し人間中心的過ぎやしないかとも言えます。ですが、この世界にあって、生きることについて考えを巡らしたり、自然現象に意味を見出そうとするのは人間くらいなものです。(仮に犬が哲学的な思案を巡らしたり、自然現象に意味を見出したりしているとしても、人間にはそれが分からないのです。)ですから、人間の目にどう映るかがある意味全てで、身体で認知可能な範囲の外側については「正直どうでもいいな」などと時々考えてしまします。

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かつて、抱えていたおたすけがどうにもこうにもうまく進まず、苦しんでいた私に対して「でもほらみてください。今日もお日様昇ってますよ。」そう言ってくれた方がありました。

「いや関係ない話されましても、、」と一ミリ思ったのですが、どういうわけか心にその一言が残ったのです。おたすけが進まずに、自分に対する不甲斐なさで頭がいっぱいだった状態を冷静に見つめると、ものすごく小さな思案の中でもがいているように思えたのです。

私がつらかろうが楽をしようが、そういう心の浮き沈みを意に介すことなく、決まったように昇ってきてくれる太陽は本当に勤勉です。そして、私のどんな姿も変わらず照らして下さる。そんなことに思いが至ると、それまでの悩みを横における余裕が生まれたり、つらい中でも今日も命を与えてもらってありがたいな、などと思えるから不思議なものです。

自らを「月日」と言った神さまは言い得て妙でした。

神さまは見ている。月日の姿でもってそれを教えてくれます。誰に届くわけでもない一人一人の心の声をも知っていてくれているのです。

月日にわどんなところにいるものも むねのうちをばしかとみている
(おふでさき 13-98)

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朝の神殿掃除で上段を拭いている私の背中を、生まれたばかりの陽光がやさしく照らしました。昨日ちょっとしたやらかしをしたからでしょうか。何か背中を押して励ましてくれるような、丸くて温かい日差しでした。

光が人間の肉体を押すわけないのですが、そう思えてまた前に進めるのなら、その人間にとっては「お日様の温かい光が私の背中を押してくれた」という意味をちゃんと持つものです。

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突如として人間社会に、激動の渦が起こりました。人間社会が地球規模で変わっていく、変わろうとしている。その過渡期にある今なのかもしれません。ですがそれはそれとして、その外側では「今日もお日様は昇って」いるわけでして。

もし仮に、この激動の渦中にあってなお、毎日変わらず「お日様今日も御昇り下さりありがとうございます。」「お日様今日も一日結構でした。絶えず照らして下さりありがとうございました。」などと拝んで過ごす人があったのなら、その方は完全に基地の外ですね(いい意味で)。私もいつか基地の外側に出てみたいものです。


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