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幸せの形「第二章006」

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 ――あれは。
 病院のベッドで私が眠っている。個室のようで診察室ではないらしい。
 どういうことだろう? 私には入院した記憶なんてない。
 というか、自分が自分を見下ろしていることにまず疑問を抱こうよ私。

 夢?

 それにしてはリアルだ。モノクロじゃなくてカラーの夢。その中の私は空気のような存在で、ふわふわと浮かんでいて好きなところへ移動できた。窓の外の景色から冬だとわかる。それともう一つ、ここは中学まで住んでいた場所だった。田舎ではなく都会である。うろうろと院内を彷徨っていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。

「そんな……あの子は――真理亜はまだ十五歳なんですよ!」

 一室の中を覗くと母の姿があった。
 すごい剣幕で医師に詰めよっていた。温厚な母が怒るなんて珍しい。

「落ち着いてください、小鳥遊さん」
「これが落ち着いていられる状況ですかっ!」

 取り乱している母に医師は極めて冷静な口調で告げた。

「真理亜さんのためにも落ち着いてください。ここで小鳥遊さんまでパニックに陥っていては最悪の結末になりかねません。それだけは避けたいのです」

 数瞬の沈黙。

「……はい」

 私の名前を聞かされた母は、まるで印籠をみせられた悪代官のように大人しくなった。しばらくして訥々と語り始める。

「いつかこうなることはわかっていたんです。わかっていたんですが……いざ現実を目の前に突きつけられるとダメですね。なにも考えられません。いえ、本当はなにもわかっていなかったのかもしれません。覚悟していたつもりでしたが、本当はただ現実と向き合っていなかっただけなのかもしれません」
「お察しします」

 社交辞令かどうかは判然としない。たしかに医師も沈痛な表情を浮かべている。

「これから二つの選択肢を提示します。真理亜さんとよく相談して決めてください。一つは入院して延命治療に専念する。もう一つは必要最低限の治療に止めて通院で対応する。それぞれメリットとデメリットがあります。入院して治療に専念するならば、当然これまでのような暮らしはできません。通院はこれまでと同じ状況を維持できますが――」

 医師は言葉を区切った。その意味は容易に想像できる。

「はっきり仰ってください。覚悟はできています」

 きっぱりと母は先を促した。

「延命治療に専念しなかった場合、余命一年」

 医師は淡々と告げた。
 目の前が暗転した。場面が切り替わる。

「嘘だよね?」

 私の声は震えていた。病院の個室。一面の白に独特の薬品臭が漂っている。

「本当なの。産まれたときに医者から小学校を卒業するまで生きられないでしょうって言われてた。だけど真理亜は元気に育ってくれて、無事に小学校も卒業できて、あんなのヤブ医者の戯言だったんだって安心してた。でもやっぱりダメなんだって――だからこれからのことを真剣に考えましょう。後悔しないために!」

 そんな母の願いも空しく、私は半狂乱になって暴れていた。

「嫌だ! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」

 惨めったらしく泣き喚いて物や母に当たっている。行き場のない怒りが暴走していた。

 不公平。
 不平等。
 絶望。
 最悪の設定だ。

「真理亜!」

 攻撃を受けながらも母は私を抱き締めた。私から攻撃色が消えていく。弱々しく震えていた。哀しい声が訴える。

「お母さん……怖い……死にたくないよ」
「私だって怖いよ。真理亜がいなくなったら……きっと生きていることが辛くなる。そこには絶望しかないんだもの。できるなら私が代わってあげたい」
「……お母さん?」

 私は顔を上げて母を見つめる。母の顔は憔悴していた。

「だけどそれはできない。だからこれからのことを本気で考えましょう」
「……うん」

 母の胸に顔を埋めて、私はぽつりと呟いていた。
 目の前が暗転した。また場面が切り替わる。

「先生、真理亜はどうなったんでしょう?」

 母と医師が向かい合って座っている。母は困惑しているようだった。

「解離性障害ですね。それ自体は特段珍しい症状ではありません。ただし、真理亜さんの場合は複雑です。前例があるかないかもわかっていません」
「どういうことでしょう?」

 母の顔は疲れ切っていた。いろいろと無理をしているのだろう。

「まず、通常の解離性障害について説明しますね。耐え難いショックを受けた場合、その事実を精神が受け入れられず、これは自分に起こったことではない――そうやって本来あるべき記憶を切り離してしまうのです」
「はい」

 熱心に耳を傾ける母に医師の説明は続く。

「ところが真理亜さんの場合、死という耐え難いショックを違うものに置き換えてしまった。つまり、彼女は『好きになった人が死んでしまう』という条件で『自身の死』を上書きあるいは隠してしまったわけです」
「よくわかりません。どうしてそんなことに?」
「詳しくは私どもにもわかりません。ただ、真理亜さんは人を好きになれないくらいなら死んだほうがマシだと考えているのかもしれません。より不幸な現実を受け入れることで、死の恐怖を払拭しようとした可能性も考えられるのです。とはいえ、これはあくまで仮定の一つに過ぎません」
「……」

 医師の話を母は黙って聞いていた。にわかには信じられないのだろう。

「それともう一つ問題が発生しました。現状、真理亜さんは自分に残された命の長さを知りません。その状況で延命治療を行うのはかなり困難です。もし治療に専念する場合、上手く言い包める方法を考えなくては――」
「その必要はありません」

 きっぱりと母は言い放った。凛とした瞳から意志の強さがうかがえる。

「しっかり真理亜と話し合いました。延命治療の必要はありません。真理亜には――真理亜のままで生きてもらいます。先生の話を聞いて私は思ったんです。ひょっとしたら今回の解離性障害は真理亜が真理亜にかけた魔法なんじゃないかな――と」
「魔法――ですか?」

 医師は訝しげな表情をみせる。母は気にする様子もなく話を続けた。

「はい。先生の話を聞く限りでは、受け入れ難い現実の部分だけ記憶消去するのが普通なんですよね? それなのに真理亜は余計な悩みを付け加えたんです。真理亜が自分自身へ託したメッセージのような気がするんです」
「小鳥遊さん、少し冷静になってください」

 暴走気味の母を医師が制した。

「たしかに小鳥遊さんの考えを否定することはできません。ですが、そんな安易な発想で決めつけてしまうのは危険です。真理亜さんは今、死の恐怖から完全に解放された状態なんですよ? これまで以上に平坦な日々を過ごしていくでしょう。そしてある日、突然、寿命が尽きてしまう。それでいいんでしょうか? 真理亜さんは後悔しないでしょうか? 余命を知っていれば優先順位を決めてやるべきことに取り組めます。それはご両親にとっても同じことです。よく考えてみてください」
「大丈夫です、先生。私たちは――私と主人と真理亜は、弱くて、脆くて、儚くて、とても一人では生きていけないから、きっとほかの家族より多くの時間を三人で過ごしてきました。だから――ほんのちょっぴりかもしれないけど真理亜の気持ちがわかるんです。あの子の魔法には意味がある。そう信じてやりたいんです」
「のちに悔いることになっても?」

 医師は最終確認を行った。
 母は微笑んで。

「はい」

 涙を流していた。
 目の前が暗転した。さらに場面が切り替わる。

「引っ越しですか?」
「はい。この慣れ親しんだ土地で嘘をつき通すのは困難だと思ったんです。それで主人と相談して誰も知らないところへ引っ越すことにしたんですよ。都会の喧騒を忘れて、静かに暮らせるところがいいかもしれませんね」

 母の顔に迷いはない。決定事項なのだろう。医師もそう感じ取ったらしく話を進めた。

「行き先は決まっているのですか?」
「いえ、まだ……まるで見当もついていません」
「それならば提案があります。のどかな田舎になるのですが、もしよろしければ検討して頂きたい場所があります。空気も澄んでいますし、なにより私が師と仰ぐ先生を紹介できます。真理亜さんが快適に過ごせる環境は整っていると思いますよ。できるだけのことは最後まで協力させてください」
「ぜひ紹介してください。すぐにでも主人と相談してみます」
「わかりました」

 医師が首肯する。そのあともなにかしら話し合っているようだった。
 だけど私の耳にはもう届かない。
 ああ、やっとわかった。

 これは夢じゃなくて記憶――想い出だ。
 死に怯える毎日じゃなくて、これまで通り私は普通に暮らしたかったんだ。普通に――平凡に――凡庸に――他愛のない毎日を送りたかった。
 だから私は魔法をかけたんだ。
 死の恐怖から逃れるための魔法。

 だけど。
 この魔法にはもう一つの秘密がある。
 好きになった人が死ぬという呪い。
 死ぬより不幸な状況を作って現実を上書きした。
 ううん、それは違う。
 私は最期を迎える私自身に奇跡を起こしてあげたかったんだ。
 禁止された恋が許される魔法。
 それが私から私への贈り物。

 最期に願いが叶う。
 恋する魔法。
 魔法をかけたのは私自身。

 被害者の顔が思い出せないのは、私が作り出した空想上の人物だったからだ。あの日を境に感じた周囲の視線は、きっと余命を宣告された私への同情なのだろう。そんな中で秘密を守り抜くことは難しい。だから引っ越してくれたのだろう。そう考えれば辻褄が合う。そして、お礼を言わなければならない。

 お父さん、お母さん、高見先生、私の魔法を最後まで信じてくれてありがとう。ようやく、その意味を見出せました。
 どれくらい経ったのだろう。
 私は目を覚ました。奇しくも夢の中と同じ病院のベッドの上である。

「お、目覚めたか?」

 高見先生がベッドの傍らにいた。ぼーっとした頭で考える。

「私……どれくらい眠っていたんですか?」
「んー、たぶん、一時間くらいじゃないかな」

 意外と短い。もっと長時間眠っていると思った。

「それがどうかしたのかい?」
「いえ、なんでもありません。ただ――私にかけられた呪いは解けちゃいました。だから人を好きになってもいいんです。大好きな人に大好きって言えるんです!」
「――」

 ぽかーんと口を開いて高見先生は私を見ている。状況が飲み込めていないようだった。順序立てて解説する。

「夢を見たんです。不思議な夢。本来記憶にないはずのものまで見えました。だから全部わかったんです。呪いは解けました。同時にありがたい魔法も解けちゃったんですけどね。先生、私は不治の病に侵されていたんですね。呼吸器系のなんたらかんたらって……名称はうっかり忘れてしまいましたけど」
「つまり記憶が戻ったのかい?」

 高見先生の声が枯れていた。驚きを隠せないらしい。

「はい」

 私は明言した。

「ふむ」

 白衣の医師は腕組みをして椅子に深く座り直した。ややあって続ける。

「それでよかったのかもしれないな。なにも知らないまま時が過ぎて行くことに不安を募らせていたんだよ。やはり真実を知っておいたほうがいいからね」
「心構えができるのはいいかもしれないですね。ただ、私の寿命がとっくに過ぎていることもわかっちゃったんですよ。一年しか生きられないはずなのに、もう一年半も経ってるんですよね。人間の生命力って侮れないかも」
「……」

 言葉が出ない。高見先生の様子はそんな感じだった。

「ここの環境がよかったんでしょうね。でも、さすがに限界みたいです。自分の身体のことだからわかるんですよ。あと二ヶ月くらいしか持たないじゃないかな?」

 私は努めて明るく振舞った。室内に表現し難い静寂が訪れる。
 ゆったりと流れる時間。

「……怖くないのかい?」

 ようやく高見先生が口を開いた。

「怖いですよ。それに――とても辛いです。私のためにこんな僻地まで引っ越してくれた父と母のことを考えるとやり切れません」
「僻地って言うな。じゃなくて、どうしてそんなに冷静でいられるんだい?」

 信じられないと言いたげな顔だった。

「そんなの簡単ですよ。私は魔法のおかげで死に囚われることなく怠惰な日々を過ごせました。そのかわり呪いによって人を好きになれなかったんです。だけど、最期に呪いが解けて人を好きになってもいいとわかったんですよ。大好きな人に大好きって言えるんです。私は自分自身のかけた魔法と呪いによって、平坦な日常と、最高の奇跡をもらえたような気分なんですよ。私は――私のことを大好きになれました」

 嬉しい気持ちが溢れすぎて、たぶん、意味不明な発言になっていたかもしれない。きちんと正しく伝えられていないかもしれない。だけど、これだけは確信を持って言える。

 私は幸せです。
 だから私は悔いの残らない最期を迎えたい。

「高見先生にお願いがあります」
「急に改まってどうした?」
「もうすぐ文化祭があるんです。下準備から当日まで、ほかの人と同じくらい元気になれる方法ってありますか?」

 神妙な面持ちで高見先生は私を見つめている。それでは存在を認めているのと同じだ。問題は副作用とかそういう類の話だろう。
 やがて高見先生は重々しい口調で告げた。

「これは僕の一存で決められることじゃない。ご両親を呼んで相談させてもらう。本来なら有無を言わせずに入院させなければならない状態だからね」
「わかりました」

 私は静かに首肯する。
 その日の夜。
 厳かに家族会議が開かれた。

 捨て鉢になっているわけじゃない。投げやりになっているわけじゃない。命を適当に扱おうとしているわけじゃない。どうしても譲れない――だから寿命をさらに短くするような暴挙に出る私を許してください。両親は初めから反対するつもりなどなかったのだろう。

 しばらくすると涙ぐんだまま私の提案に賛成してくれた。
 ただ覚悟を決める時間がほしかったのだ。

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