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幸せの形「第一章005」

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時が経つのは早いもので、私は週二回の通院と月一回の検査というルーチンワークにも慣れてきた。そうなると次のステップへ進みたくなる。ちょうど夏休みに入るので、私はアルバイトをしたいと両親へ申し出た。そろそろ新しいパソコンもほしいし、月々の小遣いだけでは財政が破綻してしまうからだ。

 家族が揃う夕食のときだった。

「――というわけで、アルバイトをしようと思ってる」

 校則でアルバイトをするには親の承諾を得なくてはならないと規定されている。簡単に許可されると思っていたのだけど――そうは問屋が卸さないらしい。

「な、なにを言ってるだ! 真理亜」
「そうよ、アルバイトなんてなにをさせられるかわかったものじゃないんだから!」

 すごい剣幕で反対された。というか、心配されたのほうが正しい表現かもしれない。両親は私に優しすぎるのだ。ただし、甘やかしているわけではないと思う。

「なにって……スーパーならレジ打ちだと思うけど?」
「レジを舐めるな!」

 温厚な父がえらくご立腹である。レジを舐めるなって言われましてもね。

「心ない客の罵詈雑言で精神が蝕まれていくかもしれないんだぞ」

 身体は脆くても精神はわりと骨太なので大丈夫だと思います。

「それにね、レジのお金が合わないとか言われて、変なところまで調べられたらどうするつもりなの? ちゃんと抵抗できる自信ある? 世の中が草食系男子ばかりだと思ったら大間違いなのよ」

 なにやら母の様子がおかしい。

「あの、お母さん?」

 私の呼びかけにも暴走した母は止まらない。テーブルを叩いて立ち上がった。

「バックヤードは無法地帯なのよ!」

 いや、そういう成人向けの発想やめてください。ひとまず怪しい手つきを止めてください。心配しすぎです。世の中をもうちょっと信用してあげてください。

「とにかく、アルバイトは危険すぎる」

 有無を言わせない迫力で父が告げる。

「でも小遣いだけじゃ限界があるし、私だって自分の力でお金を稼ぎたいよ」
「むう、そこまで言うなら父さんとデートしてくれ。そしたら報酬を支払う」

 どうしてそう飛躍するのだ。もうちょっとありがちな意見をお願いします。

「……娘とデートして金を支払う父親ってどうかと思うけど?」

 食事がちっとも進まない。というか、食欲がなくなっていく。

「いいじゃない。それなら母さんも安心だわ」

 さっきまでと一転して母の表情は明るい。私はげんなりするしかなかった。

 私の両親は無秩序に過保護というわけではない。間違ったことをすれば叱ってくれるし、正しいことをすれば褒めてくれる。金銭感覚が一般家庭とブレているわけでもない。唯一――私の身体に負担がかかるようなことを極端に嫌うだけなのだ。理由は明白。発作で倒れてほしくないからである。そもそも私のために辺境の地まで引っ越してしまうような両親なのだ。私になにかあったら生きていけないのかもしれない。だから私は拒絶することができない。大好きな両親を悲しませたくないから。

「じゃあ、デートをアルバイトだと思って頑張ってみるよ」
「年頃の娘とデートできるなんて父さんは世界一の幸せ者だよ」

 どんだけ狭い世界ですか!
 だけど。

 そんな些細なことで本当に嬉しそうに笑う父を見ると、私の心は優しく温かく心地良く澄みきっていく。大切に扱われている。一家団欒。少なくともこのときは人生という不平等な世界にも味があるなと感心してしまう。呪われている私にだって安息の地は存在するのだ。

 毎週土曜日に行われる援助交際――もとい幸せ家族計画。

 拘束時間は平均六時間。一回のデートでもらえる報酬は五千円。一ヶ月で二万円。土曜日が五回ある月は二万五千円になる。それとは別に小遣いが一万円。贅沢すぎて不安になる。本当にこんなことでいいのだろうか? もちろんデートにはいくつか条件が設定されていて、報酬を支払う以上は守ってもらうと念を押させている。それが次の三点だ。

 その一、デートのときは着飾ること。
 その二、写真やプリクラ撮影を拒まないこと。
 その三、無理をしないこと。

 その三を行使すれば一と二の条件を打ち消せそうな気がするのだけど、そんな指摘をすれば父も母も泣いてしまうのでやめておく。そもそも一と二も私が困る条件じゃない。要するに私との想い出を残そうとしているのだ。素直に受け入れよう。

 本日のデートプラン発表。
 ドライブをして中華を食べる。
 私、父、母の三人で。

 もはやデートですらない。ただの外食じゃないですか! これで報酬をもらうなんて気まずいです。もうちょっと私が嫌がりそうな要求もしてください。食器洗いとか洗濯とか掃除とか――って、これもデートじゃないけど。

 さて。
 私の妄想一人芝居を続けていても仕方がないので話を進めるとしよう。

 小説の殺人現場に使われそうな山奥の村とか、雪山の別荘なんかだと話は変わってくるのかもしれないけど、私たち家族が住んでいる地域では車を一時間ほど走らせればそれなりに栄えた市街地に出る。

 そんなわけで、小一時間ほどのドライブを終えて、父の運転する車は駐車場の一角に停まった。私は後部座席から降車。周辺は建物が立ち並び人々が行き交っている。都会と呼ぶにはかなり寂しい光景だけど、それでも一時間前に見ていた景色よりは壮観だ。運転席と助手席から父と母が降りてくる。

「夕食にはちょっと早いし、しばらく自由時間にしましょうか?」
「そうだな。俺も新しい道具を吟味したいと思っていたところだ」

 母の提案を父が許諾する。推測するに父のいう道具とは釣り具のことだろう。こっちに来てから始めた趣味らしいのだけど、もうすでにけっこうな額を散財している気がする。形から入るタイプはなにをやるにしてもお金がかかるのだ。

「じゃあ、私も時間までふらふらしてくるよ」
「ダメよ、真理亜は私と一緒に行動」

 そう言って母は腕を絡めてくる。まるで恋人みたいに恥らいもなく。

「七時に待ち合わせよう。あのでっかい建物の入り口集合な」

 父の指差した方向には五階建てらしき小型デパートのような物件があった。それほど大きいわけでもないのだけど、この地域には縦型を嫌う建築家が多いらしく、それなりの迫力を醸し出している。

「了解」と母。
「はーい」と私。

 それから私と母は一緒に駐車場をあとにした。
 歩きながら他愛もない会話をする。

「こっちに来てからさ、こうやって真理亜と二人きりでウィンドウショッピングするの初めてだよね。近くに大きなお店がないから仕方ないんだけどさ」
「ウィンドウショッピングどころか塗装された道路を歩くのも久しぶりだよ」
「あはは、そういえばそうだね。私は駅周辺まで買い物に出かけるからそうでもないけど、学校と家の往復だけだとそうなっちゃうよね。病院へ行くときもそうなの?」
「んー、アスファルトは久しぶりに見た気がするんだよ」
「そっかあ」

 いつも友達のように接してくれる母なのだけど、こっちに引っ越してから、ほんの少しだけお母さん度が上がったような気がする。目に見える変化があったわけじゃない。なんとなくそう感じるのだ。それがなんであるかはわからない。

「ねえ、駅で思い出したんだけどさ」
「うん。そっち方面へ買い物へ行くんだっけ?」

 なにか面白いことでもあったのだろうか?

「そうじゃなくてね。夏休みとか長期休暇になると、あの三十分に一本しか来ない電車に乗って、こっちまでアルバイトに来る子が多いんだってさ。信じられないよね? アルバイトなのに通勤に一時間もかかるんだよ」

 そういう話なら聞いたことがある。なにやら学校周辺では長時間働けるアルバイトの募集がないらしく、平時はいいとしても、夏休みなど長期休暇中に稼ぎまくりたい学生にとっては悩みの種だそうだ。それで遠くても供給のある場所へ学生は集まるらしい。さすがに私はそこまでするつもりはなく、仮にアルバイトが認められていたとしても、地元の需要と供給に身を委ねていたと思う。

「でも向こうだと限りがあるからね。たっぷり稼ごうと思ったら出てくるしかないんじゃないかな? 私は交通費がもらえるとしても嫌だけど」
「なるほどー」

 いつのまにか地元の情報に精通している娘に母は感心している様子だった。似たり寄ったりの話を続けながら各店を見て回る。
 どういう流れからそういう質問に至ったのか覚えていない。魔が差したというべきなのだろう。気がついたら、ふと尋ねていたのだ。

「そういえばさ、お母さんはどうしてお父さんを好きになったの?」
「知りたい?」
「気分が悪くならない話ならね」
「……お母さんとお父さんの恋愛はそれほどグロくありません」

 落ち込む母を宥めつつ、私は「ぜひ聞かせてほしい」的なフォローを入れまくった。するとなんとか機嫌を持ち直したらしく、母は自販機とその先にある休憩用のベンチを指し示しながら言った。

「立ち話もなんだからさ。ジュースおごってくれない?」

 前言撤回。このお方はちっとも成長していませんでした。私の妄言でした。間違いなく、お子様です。

 ジュースを購入して二人でベンチを占拠した。私の手にはペットボトルのお茶が握られている。母はアイスコーヒーを買っていた。ほっと一息つく。しばらくして、母は遠い目をしながら話を切り出した。できるだけ手短にお願いしますとは死んでも言えません。

「実はね、高校の同級生なの。うっとうしいくらい毎日毎日しゃべりかけて来てさ、最初は苦手だったんだよ。見た目もタイプってわけじゃなかったからね」

 誰かさんに似ている。

「でさ、一年経つとクラス替えがあるじゃない。進級するわけだからね」
「うん」
「やっと解放されるーっ! って浮かれてたんだよ」
「――まさか、また一緒のクラスでしたってオチ?」
「ううん、違うクラスだったよ」

 ふむ。名探偵も青ざめるほどの推理を試みてみる。安易な結論が導き出された。

「あー、わかった。クラスが離れても会いに来たんだ」
「ぶー、それもハズレ」
「なにそれ?」

 私は首を傾げた。母は溜め息混じりに肩をすくめる。

「お父さんね、新しいクラスで知り合った女の子に話しかけてた」
「うん」

 相槌を打つ私を母が訝しげに見やる。

「……うんじゃないよ」
「なんで?」
「ふふん」

 鼻で笑われた。またまた遠い目をしつつ母は言葉を紡ぐ。

「卑しいよね。毎日しゃべりかけてきて迷惑だなあ――なんて思いながら、心のどこかにこの人は私のことが好きなんだ――という優越感を覚えていたんだよ。本当は私じゃなくてもよかった。たまたまクラスが一緒だから話しかけられていた。とんだ勘違い。それで気づいたんだ。がっかりしている自分にね。本当は――クラスが離れても会いに来てくれることを望んでいた。わかったのよ。ああ、好きになったのは私のほうなんだ――てね」

 どうなんだろう? 私は。
 二ノ宮に声をかけられなくなったら寂しいと思うのだろうか?
 今度は私から言葉を投げかける。

「それからは猛アタック?」
「そのつもりだったんだけどさ、いざ自分の本心に気づいちゃうと、それまで普通にできていたことさえ空回りしちゃうんだよ。それからの一年はストレスで死ぬんじゃないかってくらい空回りし続けた記憶があるもの」
「……そうなんだ」

 苦笑いで応じるしかない。なんというか、空回りする少女時代の母を容易に想像できてしまうからだ。とにかく先を促したほうが無難っぽい。

「それでどうなったの?」
「三年生でまた同じクラスになってね、そしたらまた私に話しかけてくるようになったの。だからさ、もう素直に思いをぶつけたんだよ。どうして私に話しかけるの? 私のことが好きなの? 私はあなたのことが好き――ってね。きっと顔を真っ赤にしてたと思う」

 当時の様子を思い出しているのだろう。昔話を語る母は妻でもお母さんでもなくて女の子だった。初々しくて可愛らしい。ところが、母の表情が急に曇る。

「ああ、ダメだね。こんな話を真理亜にしちゃうなんて私は最低の母親だよ」
「ん?」

 わけがわからなかった。別にグロいとは思わなかったけど?
 唐突に。

「ごめんね、真理亜」

 気がつくと母は元のお母さんに戻っていた。

「普通に産んであげられなくて」

 その言葉が頭の中でリフレインする。
 ――普通に産んであげられなくて。
 それはなにを意味するのだろう。
 虚弱体質に対してだろうか?

 それとも好きな人を死に至らしめる奇病についてだろうか?
 そんなことはどうでもいい。
 母は私に謝る必要などないのだ。

 さまざまな否定語が身体中を駆け巡っているのに、寂しげな表情をする母にそうじゃないんだよって伝えたいのに、産んでくれてありがとうって言いたいのに、結局なにも言えなかった。私は素直になるのが苦手なのだ。卑怯というのかもしれない。

 ただ黙って見守ることしかできなかった。

「そろそろ七時だね。約束の場所へ向かいましょう」

 私の手を取って母は歩き出した。
 私はその手を強く握り返すことくらいしかできなかった。

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