そんな世界は嘘である
金曜日の夜、友人と二人でファミレスへ通うのが恒例になっていた。
席に案内されると友人こと天宮千秋はダッフルコートを脱いで椅子の背にかけた。露骨に胸を強調した服装があらわになる。ちなみに下は黒のキュロットだった。長い黒髪と妖艶な唇が小悪魔的な魅力を醸し出している。
毎度お馴染みの注文を済ませて、僕は恒例行事のようにドリンクバーへ向かう。二人分の烏龍茶を持って席へ戻る。すると千秋は一人の店員を見つめながら口を開いた。
「平原さん、また痩せたわね」
「あれは痩せたんじゃない。やつれているんだ」
僕は千秋の言葉を訂正しておく。黒髪の少女は小さく首を傾げた。
「酒癖の悪い義父が原因かしら?」
「それと筋肉以外に自慢できることが何一つない彼氏も問題だろうな」
「無理な体位を要求されているのかしら?」
「さあな」
ここで少しだけ平原さんについて話しておこう。
彼女は僕たちと同じ大学に通う同級生だ。母親の再婚相手が最低の人物で、毎日働きもせずに飲んだくれているらしい。そのため健気な彼女はバイトをして家計を助けているのだ。しかし彼女の不幸はこれで終わらない。粗暴で頭の悪い筋肉自慢彼氏から逃げられないらしい。別れ話を切り出すと殴られるそうだ。薄幸少女と呼んでも過言ではないだろう。
「義父に襲われそうになったこともあるらしいわ」
「くそ、母親はなにをしているんだ!」
僕は憤りを隠せなかった。千秋も神妙な面持ちをしている。
そのときだった。
ファミレス制服に身を包んだ平原さんが注文の品を運んできた。僕たちは話の内容を悟られないように平静を装う。店内が混雑していたおかげか気付かれずに済んだ。
テーブルに並べられたのはカルボナーラとハンバークである。
左手で髪を押さえて千秋はフォークに絡めたパスタを口へ運ぶ。
僕はハンバークにナイフを刺した。
平原さんの義父と彼氏に罵詈雑言を浴びせながら食事を進める。
「平原さんには幸せになってほしいものだわ」
「そうだな。だけど僕たちがどんなに願っても平原さんは迷惑がるだけだろうね」
なぜなら平原さんにはそんな義父も彼氏もいないからだ。
というか、あの店員さんの名前が平原さんかどうかも知らない。
食事を終えると千秋はテーブルの上に将棋盤を置いた。9×9の升目に駒を並べていく。金曜日の夜に会うのはこれが目的だった。今夜は七番勝負の第五局目である。
知らない人のために将棋について簡単に説明しておこう。
一言で表現するなら壮絶な頭脳戦が繰り広げられる競技だ。各種駒の特性を利用して相手の王を取るという単純なルールなのだが、終局図までの手順は十の四十乗の二乗倍という宇宙の元素の数よりも多いとされている。まったくもって奥深い競技なのだ。
局面は中盤に差しかかる。
「4四角」
小粋な音を立てて僕は駒を動かした。千秋が腕を組んで思考する。
ややあって、次の一手が放たれた。
「成銀を生贄にして禁じ手二歩を限定解除、4三に歩を召喚してターンエンドするわ」
「ふむ。難しい局面だな」
椅子に背を預けて僕は頭を悩ませる。ちなみにこれは天宮将棋という娯楽だ。将棋の奥深さや駆け引きの妙を天才の向こう側へ超越した競技である。
「仕方がない。持ち駒の銀を放棄して1一王を9一へ瞬間移動、続けて6六に角を召喚してターンエンド。次のターンで王手をかける」
天宮将棋の実力が試される難しい局面だった。
周囲から尊敬の眼差しが向けられていた。別名を軽蔑の視線という。
平原さんが険しい顔付きで空いた皿を引き上げていった。
七番勝負第五局は終盤戦へ突入する。
「ところで彼女とは上手くいってるのかしら?」
将棋を冒涜したような盤面に視線を落としながら、千秋はたおやかな指で持ち駒の桂馬を弄んでいる。
少しだけ昔話をさせてほしい。
僕は生まれてから二度ほど失禁したことがある。一回目は赤信号の横断歩道に突き飛ばされたときだった。これに関しては失禁で済んでよかったと思っている。運転手の腕が悪ければ僕は死んでいただろう。二回目は赤信号の横断歩道に突き飛ばされたときだった。いや、正確には降りてきた運転手に怒鳴られたときだ。あの運転手だけは絶対に許さない。
もちろん、ここで昔話を語った意味はない。
閑話休題。
「それにしても彼氏が魅力的な女の子とデートしても怒らないなんて寛大な彼女ね」
千秋は追加注文していたアイスクリームをスプーンで掬った。どういうわけか口のほうをスプーンへ近付けていく。それは一見すると奇妙な光景だが、よくよく観察するとかなりエロい。終盤戦に来て揺さぶりをかけてきたのだろう。
やれやれ僕も舐められたものだ。
数分後。
「投了だ」
「あら、今日は負けを認めるのが早いわね。これで私の四勝が確定するのだけど、あとでやっぱなしとか言ったら赤信号の横断歩道へ突き飛ばすわよ?」
犯人はお前だったのか!
「絶対に言わない」
「そう。それじゃあ終局にしましょう」
こうして本日のエア天宮将棋は幕を閉じた。会計を済ませて二人で外へ出る。夜空には星一つなかった。千秋の口から白い息が零れる。
「七番勝負に負けたほうは勝ったほうの言うことをなんでも聞く約束よね?」
「二言はない」
僕はきっぱりと告げた。
「彼女と別れてくれないかしら?」
人生三度目の失禁を体験するところだった。
「それはできない。彼女には僕しかいないんだ」
なぜならパソコンの画面から出ることができないからだ。
「そう」
一拍置いて千秋は続けた。
「それならバレンタインデーに鍋を食べましょう」
「わかった。そのかわり食べられないものを入れるのはなしだ」
こくりと黒髪の少女は首肯した。
「それとね」
とても恥ずかしそうに千秋は言葉を付け加える。
「もし私がチョコレートを渡そうとしたら殴り倒してでも止めてくれないかしら?」
僕は鷹揚に首肯した。
理由は聞かない。
去年のクリスマスはかぼちゃのお化け姿で雑煮を食べた。
怖いものなどなにもない。千秋は満足そうに微笑む。その仕種に僕はどきりとしてしまう。
「夜はいいわね」
黒髪の少女は星のない空を見上げる。僕は特に急かすわけでもなく先を促した。
「どうして?」
「昼にできない話ができるからよ」
その言葉にはいろいろな意味が含まれているのだろう。
千秋は言った。
世界の出来事はほとんど頭の中で起こっている。
だから僕は反論しておく。
そんな世界は嘘である。
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