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【エッセイ】自由を爪に宿して

大学生になった頃だろうか。
自分でお金を稼ぐようになって、ようやく自我が芽生えた気がする。
それまでは、自我が芽生えたふりの優等生だった。
「母や祖母の気に入る言葉」を「自分の意見」として発信して、かわいがられていたように思う。
今でもそれはあまり変わらない。それが私なりの気遣いの仕方だからだ。
でも、自分でお金を稼ぐようになって、メイクや服選び…ことにファッションに関しては自由にお金を使うようになった。
自分のお金だから、母や祖母の意見を聞かなくてもあんまり後ろめたくない。
私は手始めに脱毛やエステに手を出した。
身体にお金をかけるのは心地が良かった。
私のまわりには美しい女性がたくさんいる。どの人も素敵な人で、一緒にいて楽しいのだが、その美しい友達たちの中にいることで劣等感が膨らんでいくのもまた事実だった。
だから、脱毛やエステで自分にお金をかけることで、まともな女に近づけた気がして嬉しかった。彼女たちの友達として恥ずかしくない気がしてきて嬉しかった。

そうやって美容にお金をかける中で、ずっと手が出せなかったものがある。
それはネイルだ。
脱毛やエステなんかよりずっと安価なネイルサロンに、なかなか行くことが出来なかったのには理由がある。
中高は校則で禁じられていたし、大学時代はネイル禁止の飲食バイトをしていたからだ。
そして何より、私の中に「ネイルは悪」という固定概念がなんとなく存在していたことが一番の要因だろう。
今ではあまり言わなくなったが、私の祖母は爪に装飾している人を見ると、
「どうやって米を研ぐのかねえ。あんな爪して、きっと家事をろくにしない女なんだろうね」
というようなことをよく言っていた。
母も
「爪が呼吸出来なくなるからあまりいいものじゃない」
とネイルに関しては否定的だった。
そんな刷り込みもあってか、私の中で「ネイルは軽薄な女がするもの」という偏見が幼いころより育っていたように思う。
でも、どこかでその華やかな芸術に焦がれてもいた。
元来、キラキラしたものが好きな私は、本心ではネイルをしたかった。
キレイに爪にアートを施している友人を見るたび、うらやましかった。
身体の末端まで気にかけているその姿がまぶしかった。
自爪のままの自分は、完全体じゃない気がして寂しかった。

そんな葛藤を抱いたまま、大学時代は終わっていった。
希望する業界に就職を決め、入社。
会社の環境に慣れてきた今年7月、退勤後の電車の中でInstagramを眺めていたらお気に入りのサロンを見つけた。
数々の、大人びていて、かつ少し奇抜なデザインたちが私の心を射貫いた。
上品で個性的なそれらは、祖母の言うような「ろくでもない女」のイメージから遠くかけ離れていた。
これを爪に宿したら、私もこのネイルデザインのようなきらめきをまとえるのだろうか。
そこからの行動には迷いが無かった。スケジュールを確認し、予約ページを開く。
私はとうとう、ネイルサロンを予約した。
初めてお金をかけて施してもらったハンドネイルは、夏らしくイエローとブルーのラメを用いた爽やかなデザインだった。
華やかで品のあるデザインは私の華奢ではない手にもすっと馴染んでくれて、次の施術日が来るまでの4週間、私の心を照らし続けた。
ハンドネイルというものは不思議なもので、施しているだけで指先に意志が宿っているような気がした。
ただのツールでしかなかった手指が、己の意志で動いているかのような力強さを感じさせ始めた。
こうやってタイピングして文字を打っているのも、指が脳の言いなりになっているというよりは指が語っているような気がしてくる。
語る唇にルージュを引くように、動く指にネイルを施すのは思っていたよりも意味のあるものだったようだ。
たかが爪、されど爪。
私の自己肯定感は、それだけでだいぶ救われる。
欠点だらけのこの身体だけど、現時点で爪に関しては他人に引けを取らないはずだ。
祖母や母の呪縛からまたひとつ解放されて、私の心は軽くなった。
8月の青空を閉じ込めたようなデザインの爪を見ながら、気合を入れなおす。
私はこの美しい爪で、自由に語っていく。

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