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倫理的な人は犯罪を助長する【詭弁ノート1】

売春の買い手を犯罪者扱いする心優しき民衆は、
実は強姦を賛美しているのである。

1. 序論

倫理的な行動を求める声は、社会全体で広がっている。
特に性売買に関しては、その買い手を犯罪者と見なす動きが強まっている。
しかし、このような一見正義感に満ちた行動の裏には、実は深刻な矛盾が潜んでいる
売春そのものを問題視し、その買い手を罰することが、結果として強姦の増加を招いていることに多くの人々は気づいていないのだ。
この事実は、18世紀末のフランスにおいて既に明らかにされていたが、現代においても同様の結果が見られる。
たとえば、北欧モデルが導入された国々では、性犯罪の増加が報告されている。

倫理的な綺麗事を掲げることが、現実には悲惨な結果を引き起こすことがある
厳罰化を求める声も同様である。厳罰化は、司法上の暴力を容認することであり、それは潜在的に日常的な暴力を認めることになる。
平和のために厳罰を求めれば求めるほど、世界は悪に満ちていくのだ。

また、心理学者や社会学者のなかには、非倫理的な言動をとる者を極端な形で非難する者もいる。
こうした行為は、非倫理的なことをした者は誹謗中傷されても仕方がないという意識の流れに巻き込まれ、同時にそれを生んでいる。
倫理的に振る舞っている者ほど、実は非倫理的であり、そのことを巧妙に隠しているのだ。

1-1. 倫理的な行動の背後に潜む矛盾

「罪を憎んで人を憎まず」という標語は、実に陳腐で聞き飽きたものであるが、これを実践できている者は少ない。
重要なのは、まず人を人として扱い、罪は毅然とした態度で悪いと断定し、そのあとでなぜそのような罪を犯さなければならなかったのかを考えることである。
理由によって罪が正当化されるわけではないが、最も重要なのは同じことを繰り返さないことである。
原因を考えることは予防が目的なのである。しかし、こういった中立的な見方ができる者は表舞台に立ちづらい。
いつも表舞台で踊っているのは極端な物言いをする者たちである。
だから、そのような詐欺師たちの誘惑に乗ってはならない。
零か百、イエスかノー、白か黒ではなく、個別の事象を取り上げて考えなければならない。

1-2. 記事の目的と構成

本記事の目的は、倫理的な行動の背後に潜む矛盾を明らかにし、真に批判的な見方を養うための方法を提案することである。
まずは売春と倫理について考察し、売春の買い手を犯罪者扱いすることの問題点や、売春が強姦を抑制するという歴史的視点、北欧モデルの影響とその結果について論じる。
次に、倫理的な行動が現実に与える影響について検討し、厳罰化のパラドックスや非倫理的な言動への過剰な非難の弊害についても触れる。

また、「罪を憎んで人を憎まず」という標語の実践とその難しさ、罪の原因を考えることの重要性と予防策についても考察する。
さらに、極端な意見とその影響、中立的な見方の重要性についても論じる。
そして、真に批判的な見方を養うためには、インフルエンサーから距離を置くことと、歴史から学ぶ連続的な事象の捉え方が重要であることを強調する。

最後に、現代の急速な変化と予測の困難さ、政治屋やコメンテーターの問題点、不確実性と詭弁の関係についても触れ、倫理的な行動の再評価とその実践について結論づける。

2. 売春と倫理

売春の問題は古くから議論されてきたが、その倫理的側面は複雑であり、単純な善悪の二元論では解決できない。
売春は「必要悪」として社会に存在している。
売春が存在することで、性犯罪、特に強姦の抑制に寄与していることがある。
ここでは、売春の買い手を犯罪者扱いすることの問題点、売春が強姦を抑制するという歴史的視点、そして北欧モデルの影響とその結果について詳述する。

2-1. 売春の買い手を犯罪者扱いすることの問題点

売春の買い手を犯罪者扱いすることは、表面的には倫理的に見えるかもしれないが、実際には深刻な問題を引き起こす。
心優しき民衆は、売春を非道徳的と見なすことで、買い手を犯罪者として扱うことに賛成する。
しかし、このような立場は、売春という行為そのものの背後にある複雑な社会的・経済的要因を無視している。
売春を犯罪視する行為は、実は強姦を賛美しているに等しい
売春を禁止することで、性的欲求を合法的に満たす手段が失われ、その結果として性犯罪が増加する可能性があるのだ。

2-2. 売春が強姦を抑制するという歴史的視点

売春が強姦を抑制するという視点は、歴史的にも確認されている。
18世紀末のフランスでは、売春が合法的に行われていた地域では、そうではない田舎より、強姦の発生率が低かったことが記録されている。
売春が存在することで、性的欲求を合法的に解消する手段が提供され、結果として強姦の発生を抑制する効果があったと考えられる。
この歴史的事実は、現代においても有効である。
実際、売春の買い手を罰する北欧モデルが導入された直後から、性犯罪が増加しているというデータがある。
このような現実を無視して倫理的な綺麗事を主張することは、かえって悲惨な結果を引き起こす。

ジョルジュ・ヴィガレロ 藤田真利子訳(1999)強姦の歴史 作品社, p. 102

2-3. 北欧モデルの影響とその結果

北欧モデルとは、売春の買い手を罰する法律を指す。
このモデルは、売春そのものを根絶することを目的としているが、実際には多くの問題を引き起こしている。
まず、売春の買い手を罰することで、売春行為が地下に潜り、より危険な環境で行われるようになる。
その結果、売春に従事する女性たちの安全が脅かされる。
また、売春の買い手を罰することで、売春が減少するどころか、性犯罪が増加するという逆効果が生じている。

北欧モデルの導入後、実際に性犯罪が増加しているというデータが示されている。
これは、売春を禁止することで性的欲求を合法的に満たす手段が失われ、その結果として性犯罪が増加するという予測が現実のものとなった例である。
このように、売春の買い手を犯罪者扱いすることは、表面的には倫理的に見えるかもしれないが、実際には多くの問題を引き起こし、かえって社会に悪影響を及ぼしている。

結論として、売春を単純に非道徳的と見なし、その買い手を犯罪者扱いすることは、現実の問題を解決するどころか、さらに深刻な問題を引き起こす可能性が高い。
倫理的な綺麗事ではなく、現実に基づいた冷静な判断が求められるのである。

3. 倫理的行動の現実的影響

倫理的行動が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。
むしろ、表面的な倫理観に基づいた行動が現実には大きな悪影響を及ぼすことがある。
この章では、倫理的な綺麗事の危険性、厳罰化のパラドックス、そして非倫理的な言動への過剰な非難とその弊害について論じる。

3-1. 倫理的な綺麗事の危険性

倫理的な綺麗事は、その名の通り、表面上は美しいが、実際には多くの問題を引き起こす可能性がある。
たとえば、先の売春の例である。
売春は必要悪として存在している。
売春があることで強姦の数を抑制することができていることに多くの者は気づいていない。
これは、18世紀末時点のフランスですでにわかっていることであった。
現在の事例でも、北欧モデル(売春の買い手を罰する規定)が適用された直後から性犯罪が増えていることを先に述べた。

このように、現実がどのような構造をもっており、ある変化やバリエーションがどのようにその後に影響するかを予測できなければ、倫理的な綺麗事ではかえって悲惨な結果を引き起こすことになる
倫理的な行動が必ずしも良い結果をもたらすわけではないという事実を直視しなければならない。

3-2. 厳罰化のパラドックス

厳罰化を求める声もまた問題である。
厳罰化を求めるということは、司法上の暴力を容認することであり、それは潜在的に日常的な暴力を認めるということになる。
平和のために厳罰を求めれば求めるほど、世界は悪に満ちていくのだ。
厳罰化は一見すると犯罪抑止のための正当な手段に見えるが、実際には社会全体の暴力性を増加させる結果を招く。

厳罰化が犯罪抑止に効果があるという証拠は乏しく、むしろ逆効果である場合が多い。
厳罰化は犯罪者を社会から隔離するだけで、その根本的な原因を解決することはない。
結果として、再犯率が高まり、社会全体の安全性が低下することになる。

3-3. 非倫理的な言動への過剰な非難とその弊害

心理屋さんというのは、非倫理的な言動をとる者をしばしば極端な形で非難することがある。
これは、非倫理的なことをした者は誹謗中傷されても仕方がないというふうに、加虐性を正当化する意識の流れでもある。
実は倫理的に振る舞っている者ほど非倫理的であり、そのことを巧妙に隠しているのだ。

倫理的な行動が現実に与える影響は単純ではない。
倫理的な綺麗事や厳罰化、非倫理的な言動への過剰な非難がどのような結果をもたらすのか、その現実的な影響を冷静に見極めることが必要である

4. 「罪を憎んで人を憎まず」というクリシェ

罪を憎んで人を憎まず」という標語は、道徳的に正しい行動を促すための一つの指針として広く知られている。
しかし、この標語を実際に実践することの難しさは、多くの人々によって過小評価されている。
倫理的な行動を追求する過程で、人々はしばしば罪を犯した個人を非難し、さらにその個人を社会から排除しようとする傾向がある。
このような行動は、結果としてさらなる社会的不和や対立を生み出す可能性がある。

4-1. 標語の実践とその難しさ

「罪を憎んで人を憎まず」という標語を実践するためには、まず罪とその行為者を分けて考える必要がある。
これは、感情的な反応を抑え、冷静に状況を分析することを求められる。
しかし、多くの人々は感情に支配されやすく、特に非倫理的な行動に対しては強い怒りや嫌悪を感じる。
たとえば、売春の買い手を犯罪者として糾弾することは、その行為自体への強い反発から来ている。
しかし、このような感情的な反応は、実際には問題の本質を見失わせることが多い

また、罪を憎むということは、その行為がなぜ行われたのか、その背景や原因を理解しようとする姿勢をもつことでもある
しかし、多くの場合、表面的な行為だけに焦点を当て、深層にある問題を見過ごしてしまう。
たとえば、売春がなぜ存在するのか、その社会的・経済的背景を無視して単に取り締まるだけでは、根本的な解決にはならない。

4-2. 罪の原因を考えることの重要性と予防策

罪を犯す原因を考えることは、その再発を防ぐために非常に重要である。
売春の例で言えば、なぜ人々が売春に関与するのか、その背景には貧困や教育の欠如、社会的孤立など様々な要因が存在する。
これらの要因を無視して単に取り締まるだけでは、同じような問題が繰り返されるだけである。

さらに、罪の原因を考えることは、予防策を講じる上でも重要である。
たとえば、売春の買い手を犯罪者として取り締まる北欧モデルでは、その直後から性犯罪が増加しているという事実がある。
これは、売春を取り締まることで性欲を抑制する手段が失われ、結果として強姦などの性犯罪が増えるという逆効果を生んでいる。
このような事例からもわかるように、罪の原因を深く理解し、それに基づいた予防策を講じることが必要である。

罪を憎んで人を憎まずという標語を実践するためには、まず罪の根本原因を理解し、個々の事象を冷静に分析する姿勢が求められる。
これは感情的な反応を抑え、冷静に状況を判断することで初めて可能となる。
そして、その原因を理解することで、再発を防ぐための効果的な予防策を講じることができるのである。

5. 極端な意見とその影響

現代社会において、極端な意見が表舞台に立つことが多々ある。
これらの意見はしばしば感情に訴え、人々を引きつける力をもつ。
しかし、その影響は極めて危険であり、慎重に考察する必要がある。

5-1. 表舞台に立つ極端な意見の危険性

極端な意見は往々にして、問題を単純化し、白黒二分法で語られることが多い。
たとえば、「売春の買い手を犯罪者扱いする」という意見は、一見すると倫理的に正しいように見える。
しかし、実際にはその背後には多くの問題が潜んでいる。
売春を犯罪視することで、買い手を罰する北欧モデルが適用された直後から性犯罪が増えているという事実がある。
これは、売春が社会において必要悪として存在していることを示唆している。
売春があることで、強姦の数を抑制することができているという現実に目を向けなければならない。

このように、極端な意見はしばしば現実の複雑な構造を無視し、単純な解決策を提示する
しかし、その結果として引き起こされる問題は、元の問題よりも深刻なものとなることが多い。
倫理的な綺麗事ではかえって悲惨な結果を引き起こすことがあるのだ。

5-2. 中立的な見方の重要性

ところが、そういった中立的な見方ができる者は表舞台に立ちづらい。
いつも表舞台で踊っているのは極端な物言いをする阿呆共なのである。
だからそのような詐欺師たちの誘惑に乗ってはならない。
零か百、イエスかノー、白か黒ではなく、a, b, cというふうに個別の事象を取り上げて考えなければならない

ではどうすればそのような真に批判的な見方ができるのか?
まずはインフルエンサーという俗物から距離を置くことである。
これができなければ発言する権利がないと思ってほしい。
ここからが大事なのだが、歴史を学ぶことである。
しかし、ここで「これが良かった、あれが悪かった」という認識をしていては本末転倒である。
やらなければならないことは、aという事象はbという事象を引き起こし、その結果としてcということが起こり……というふうに連続的に捉えることである。
そうしないとやはりイエスかノーの二者択一の阿呆の結論に達してしまう。
物事は二択にカテゴライズされるほど単純ではないのだ。

もう一つ重要なことがある。
それは、将来のことは結局わからないということである。
条件がまったく同じであれば、ある程度は予測できるかもしれない。
しかし、あらゆるものが急速に変化する現代では、条件もめまぐるしく変わる。
だから、これがこうということは絶対的には言えない。
ところが政治屋さんや全く偉くないコメンテーターと呼ばれる人たちは、自分が全知全能の神になったかのような態度で、こうしたらこうなると断言している。
そんなことわかっていて実現できるのならば、とっくに実行していただろう。


6. 真に批判的な見方を養うために

6-1. インフルエンサーから距離を置くことの重要性

現代社会において、情報の洪水に飲み込まれないためには、自分自身で情報を精査し、真実を見極める力を養うことが不可欠である。
しかし、インフルエンサーという存在がそれを妨げている。
彼らはしばしば偏った情報や極端な意見を発信し、その影響力を利用して大衆を操ろうとする。
こうしたインフルエンサーから距離を置くことは、真に批判的な見方を養うための第一歩である。

インフルエンサーの多くは、フォロワー数や注目度を稼ぐために、センセーショナルな内容を発信する。
彼らの意見はしばしば一面的であり、深い考察に欠けることが多い。
彼らの情報に依存すればするほど、自分自身の判断力が鈍り、真実を見失ってしまう危険性が高まる。
だからこそ、まずは彼らから距離を置き、自分自身で情報を収集し、分析する習慣をつけることが重要である。

また、インフルエンサーはしばしば自分の意見を絶対視し、異なる意見を排除する傾向がある。
これにより、多様な視点をもつことが困難になり、結果として狭い視野に陥ってしまう。
真に批判的な見方を養うためには、異なる意見や視点に対して開かれた態度をもつことが必要である。
そのためには、インフルエンサーの影響力から脱却し、独立した思考をもつことが求められる。

6-2. 歴史から学ぶ連続的な事象の捉え方

歴史を学ぶことは、真に批判的な見方を養うための重要な手段である。
しかし、単に歴史的な出来事を羅列するだけでは不十分である。
歴史を通じて、連続的な事象の因果関係を理解し、それが現在や未来にどのように影響するかを考察することが求められる。

歴史を学ぶ際には、単なる善悪の判断を超えて、事象がどのように連続的に展開し、どのような結果を生んだのかを理解することが重要である。
aという事象がbという事象を引き起こし、その結果としてcという事象が生じる、といった具合に、連続的な因果関係を捉えることで、より深い理解が得られる。
これにより、現実の複雑さを認識し、二者択一的な単純な結論に陥ることを避けることができる。

7. 将来の不確実性

7-1. 現代の急速な変化と予測の困難さ

現代社会は急速な変化の渦中にある。
技術の進歩、グローバル化、気候変動など、多くの要因が複雑に絡み合い、未来を予測することが極めて困難になっている。
条件がまったく同じであればある程度の予測は可能かもしれないが、現実は条件がめまぐるしく変化する。
このため、絶対的な予測はほぼ不可能である。
にもかかわらず、多くの人々は未来を確定的に語りたがる。
これは、あまりにも楽観的か、あるいは自己過信によるものであろう。

未来を予測する際に重要なのは、常に不確実性を念頭に置くことである。
過去のデータやトレンドに基づく予測は参考にはなるが、それがそのまま未来に適用されるとは限らない。
現代の急速な変化に対応するためには、柔軟な思考と適応力が求められる。
未来は常に未知であり、その未知に対する謙虚さと準備が必要なのである。

7-2. 政治屋やコメンテーターの問題点

政治屋やコメンテーターといった連中は、しばしば未来を確定的に語る。
彼らは、自分が全知全能の神になったかのような態度で、「こうしたらこうなる」と断言する。
しかし、もし本当にそのようなことが実現可能であれば、とっくに実行されているはずである。
実際には、未来の予測は極めて困難であり、その不確実性を無視して断言することは無責任である。

さらに問題なのは、彼らの発言が多くの人々に影響を与えるということである。
無知な者が好き勝手に発言することで、誤った情報が広まり、社会全体に混乱をもたらすことがある。
特に不確実なことに関しては、正確な情報を提供することが難しいため、デマや誤解が生じやすい。

結局のところ、未来の不確実性を理解し、それに対処するためには、冷静な判断と綿密な情報収集が欠かせない。
政治屋やコメンテーターの甘言に惑わされることなく、自らの思考力と知識を駆使して現実を見極めることが求められる。

8. 不確実性と詭弁の関係

8-1. 不確実なことに対する無知な者の発言

不確実なことに対して無知な者の発言は実に厄介である。
彼らは確証がないからこそ、自信満々に無責任なことを言い放つ。
その発言が間違っていると証明するためには、まずその不確実性を理解しなければならないが、それ自体が容易ではない。

8-2. 詭弁が生き残る理由

詭弁が生き残る理由は、不確実なことに対して反論することが難しいからである。
確立された知識に対して間違ったことを言えば、心理屋さんのように即座にぶった切られる。
しかし、不確実なことには不確実なことをぶつけるしかないため、反証する隙が生まれる。
詭弁というのはそういう隙を突いて生き残ってしまう。

不確実なことであればあるほど、無知な者が好き勝手言える。
そのため、詭弁に巻き込まれないためには、一つ一つの事象を収集し、わかることはわかる、わからないことはわからないと二分することが重要である。
そうでなければ、詭弁に惑わされてしまうのである。

9. 結論

9-1. 歴史と事象の収集の重要性

歴史を学ぶことは、単なる過去の出来事を知ることではない。
歴史は、現在の状況や未来の予測に対する洞察を提供する重要なツールである。
現実世界の事象は複雑であり、単一の原因や結果に還元することはできない。
ある事象が別の事象を引き起こし、その連鎖がさらに新たな事象を生む。
この連続性を理解するためには、歴史的な事象を体系的に収集し、分析することが不可欠である。
たとえば、売春の歴史を見れば、それが強姦の抑制に寄与しているという視点が得られる。
18世紀末のフランスでも、そして現在の北欧モデルでもこの事実は確認されている。
倫理的な判断を行うためには、こうした具体的な事実に基づいた分析が必要であり、単なる感情論や道徳的な綺麗事ではなく、現実に即した視点が求められる。

9-2. 確実なことと不確実なことの区別

物事を判断する際には、確実なことと不確実なことを明確に区別することが極めて重要である。
確立された知識に基づく判断は信頼性が高いが、不確実なことについては慎重な姿勢が求められる。
現代社会は急速に変化しており、未来を予測することはますます困難になっている。
このような状況下で、政治家やコメンテーターが断定的な発言をすることは非常に危険である。
不確実なことに対しては、あくまで仮説として取り扱い、その正確性を検証する姿勢が必要である。
不確実な情報が詭弁に利用される危険性もあるため、情報の取り扱いには細心の注意が求められる。

9-3. 倫理的な行動の再評価とその実践

倫理的な行動は、表面上の綺麗事ではなく、現実に基づいた実践が求められる。
たとえば、厳罰化を求める声は一見すると正義のように見えるが、それは司法上の暴力を容認し、結果として日常の暴力を増加させる可能性がある。
また、非倫理的な行動を過剰に非難することも問題である。
これにより、誹謗中傷が正当化され、倫理的な振る舞いそのものが歪められる危険がある。
最も重要なのは、「罪を憎んで人を憎まず」というクリシェを実践することである。
罪の原因を考え、その再発を防ぐための対策を講じることが真の倫理的行動である。
倫理的な行動を再評価し、現実に即した形で実践することが求められる。


この記事は詭弁である。当てにしてはならない。


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