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ティーポットの宇宙: ゴンブロヴィッチが描く現実の過剰とメタフィクションの理論――『フェルディデュルケ』と『コスモス』の分析

本研究は、ポーランドの作家ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの作品、特に『フェルディデュルケ』と『コスモス』を通じて、メタフィクションにおける現実の概念を探求します。
ゴンブロヴィッチが描く現実は、危険かつ親密であり、フィクションと密接に関連しています。
研究の中心となるのは、『コスモス』に登場するティーポットで、これは過剰な現実の象徴として機能し、メタフィクションにおける現実の膨張を表現しています。

本論文は、ゴンブロヴィッチの作品に見られる数学的言語の使用が、現実の混沌とした性質を描写する新しい方法を提供していることを示します。
また、ゴンブロヴィッチのアプローチが、メタフィクションを読む新しい方法を示唆していることを論じ、読者に非線形的で多方向的な解釈を要求することを明らかにします。

結論として、本研究はゴンブロヴィッチを「メタフィクションの最初の理論家」として位置づけ、彼の作品がメタフィクションにおける現実の過剰という概念を提示し、文学理論に重要な貢献をしていることを主張します。
この研究は、メタフィクションの本質とその読解プロセスについての新たな理解を促進し、今後の文学研究に有益な視点を提供することを目指しています。

Kokinova, K. B. (2019). Gombrowicz and the Reality of Metafiction. Филологически форум, 5(Special), 230-243.


はじめに

ポーランドの作家であり哲学者でもあったヴィトルド・ゴンブロヴィッチ(1904~1969)は、文学の天才としてだけでなく、メタフィクションの先見的な理論家としても知られています。
本稿では、メタフィクションの枠組みの再構築を可能にする彼の小説の理論的側面に焦点を当てながら、文学理論におけるゴンブロヴィッチのユニークな貢献を探求します。

ゴンブロヴィッチの作品の根底にあるのは、現実という問題であり、彼はこの概念に懐疑と魅惑の両面からアプローチしています。
ゴンブロヴィッチは、さまざまな芸術的・哲学的表現への不信を表明したことで有名ですが、現実そのものに対する彼のスタンスは、いまもなお厳しい批判の対象となっています。
本研究の目的は、ゴンブロヴィッチがその作品、特に処女作『フェルディデュルケ』と遺作『コスモス』において、虚構の現実をどのように構築し、操作しているかを解明することです。

『コスモス』の100年前に発表されたルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』との類似性を示しながら、ゴンブロヴィッチが描く豊かで過剰な現実を分析します。
この論文は、ゴンブロヴィッチのメタフィクションが虚構の現実を従来の境界を超えて膨張させ、逆説的に首尾一貫した文学理論に整理することができる様々な形のカオスと無秩序を作り出していると主張します。

テクストの文脈と作者の指示の相互作用を考察することで、ゴンブロヴィッチの作品が文学として、また文学理論としてどのように機能しているかを明らかにし、メタフィクションの本質と現実との関係について読者にユニークな洞察を提供することを目指します。

メタフィクションの理論

メタフィクションは、自己反省的で自らのプロセスを明確に考察することを特徴とする文学ジャンルであり、文学の歴史は長い。
しかし、20世紀後半になるまで、この文芸形態が学術的に大きく注目されることはありませんでした。
この注目の高まりは、ボルヘス、バース、オブライエンといった作家によるメタフィクション作品の急増と時を同じくして起こりました。

文学者たちがこうした自己意識的な小説の分類に苦慮するなか、さまざまな用語が登場しました。
そのなかには、自己反省的小説、littérature autothématique、mise en abyme、metapoiesisなどが含まれます。
「メタフィクション」という言葉自体は、1970年にW・ガスによって初めて作られ、同年、R・ショールズがその定義をさらに洗練させました。
これにより、特にR・オルター(1975年)、L・ハッチョン(1980年)、P・ウォー(1984年)による一連の影響力のある研究が生まれました。

興味深いことに、メタフィクションはその自己言及的な性質にもかかわらず、それが要求する具体的な読書プロセスについてはほとんど議論されてきませんでした
メタフィクションは本来、読者を逆説的な関係に巻き込むものなので(ナルシスティックに自分自身に焦点を当てながら、同時に読者の参加を強いる)、この見落としは重要です。
したがって、読むという行為は、メタフィクションの機能性の中心になります。

この参加型の側面は、特定のサブジャンルである「指導的メタフィクション」においてさらに顕著です。
この形式は、読者に明示的な指示を与えるだけでなく、読むという行為を、中心的な話題から筋書きそのものへと変化させます
その結果、このタイプのメタフィクションがどのように作用するかを理解するためには、読者とテキストの指示の相互作用が極めて重要になります。

このユニークな読者とテキストの関係に注目することで、指示的メタフィクションの仕組みと目的についてより深い洞察を得ることができ、現代文学におけるその役割と読書体験への影響に光を当てることができます。

メタフィクションについてわかりやすく解説

メタフィクションは、ポケモンの世界でいうと、自分がゲームのなかのキャラクターであることを知っているポケモンのようなものです。
たとえば、ピカチュウが「僕たちが冒険しているこの世界は、実はプレイヤーが操作しているんだよ」と話すような感じです。

具体的には:

  • 自己反省性:ピカチュウが「このジムバトルは、プレイヤーがボタンを押すことで進んでいるんだ」と言う。

  • ジャンルの多様性:他にも、イーブイが「進化するのはプレイヤーの選択次第なんだよ」とか、ミュウツーが「僕は伝説のポケモンだけど、実はプログラムされた存在なんだ」と言う。

指導的メタフィクションは、さらに一歩進んで、プレイヤーに直接指示を出すポケモンのようなものです。
たとえば、ピカチュウが「次にAボタンを押して、この道を進もう!」と具体的な指示を出すイメージです。

具体的には:

  • 読者への明示的な指示:ピカチュウが「このバトルで勝つためには、まず電気ショックを使ってみて!」とプレイヤーに指示を出す。

  • 読者とテキストの相互作用:プレイヤーがその指示に従って電気ショックを使うと、ストーリーが進行する。

  • 読書体験への影響:プレイヤーがピカチュウの指示に従うことで、ゲームの進行や結末が変わる。

メタフィクションと指導的メタフィクションに関する学術的なギャップをポケモンで喩えると:

  1. 具体的な読書プロセスの議論不足:

    • ピカチュウが「プレイヤーがボタンを押すことで僕たちが動くんだ」と言っているけれど、その具体的な操作方法やプレイヤーの感情についてはあまり議論されていない。

  2. 読者の役割の軽視:

    • プレイヤーが実際にどのようにゲームを進めているか、たとえば「Aボタンを押すときの気持ち」や「選択をする心理的プロセス」についてはあまり研究されていない。

  3. 指導的メタフィクションの深い理解不足:

    • ピカチュウが具体的な指示を出してプレイヤーと対話することの影響、たとえば「プレイヤーがその指示をどう受け取るか」や「指示に従うことでゲームがどう変わるか」についての理解がまだ十分ではない。

メタフィクションのリアリティ

メタフィクションにおけるリアリティの概念

ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの作品は、特に小説『フェルディデュルケ』において、現実の概念に大きな重点を置いています。
作者は現実を、その対極にある非現実を通して紹介し、恐怖、悪夢、理想の世界と密接に結びついていると描写しています。
ゴンブロヴィッチは現実を部分的に知覚可能で既知のものとして描き、「すべての形式は排除のプロセスに依存している」こと、そして言葉は現実のほんの一部しか表現できないことを示唆しています。

現実の逆説的性質

ゴンブロヴィッチのメタフィクションにおける現実は、危険であると同時に親密なものとして表現されています。
それは私的で、主張されず、近寄りがたく、到達不可能でありながら、浄化する力をもつものとして描かれています。
興味深いことに、現実は時に「形式」に似ており、個人の間で創り出され、攻撃的で、変形し、人間的なものであると特徴づけられています。
この描写は、ゴンブロヴィッチの作品における現実の複雑で逆説的な性質を浮き彫りにしています。

リアリティ対フィクション

ゴンブロヴィッチはしばしば現実をフィクションや芸術と並列させ、文学的な引用によってそれを特徴づけています。
彼は現実を大文字の「R」で紹介し、現実には幻想や虚構が含まれているが、最終的には「素朴な幻想や無為な観念」よりも豊かであることを示唆しています。
このような視点は、ウラジーミル・ナボコフの「引用なしでは意味をなさない」概念としてのリアリティの見解と一致し、メタフィクション作品における現実と虚構の境界線の曖昧さを強調しています。

現実の創造における読者の役割

ヴォルフガング・イザーの文学に対する機能主義的アプローチを引きながら、フィクションのリアリティを実現するためには読者の知覚が重要であることを示唆。
ゴンブロヴィッチはリアリティを活力と同一視し、文学はリアリティの不在に苦しんでいると主張。
この視点は、メタフィクションをこの不在に対する潜在的な治療法として位置づけ、読書過程そのものをプロットの中心的要素とすると同時に、そのナレーションに疑問を投げかけるものです。

メタフィクションにおけるナレーションとリアリティ

本稿はモーリス・ブランショの "Madness of the Day" とゴンブロヴィッチの『コスモス』を参照しながら、メタフィクションにおけるナレーションの課題を探求します。
両作品はナレーションの可能性を問い、伝統的なストーリーテリングの手法に挑戦しています。
このセクションでは、従来の語りに抵抗するテキストをどう読むか、また、語りそのものに疑問が投げかけられるとき、メタフィクションのリアリティはどのように構築されるかについて、重要な問題を提起します。

ポケモンに喩えると

ゴンブロヴィッチの作品における現実の概念は、ポケモンの世界において、ピカチュウが自分の存在をただのキャラクターではなく、プレイヤーによって操作される存在として認識するようなものです。
ピカチュウは、ゲームの中で見る風景やバトルが現実かどうかを考え、「この世界は本当に僕が見ている通りなのか?」と疑問を持つような状態です。

この現実は、ピカチュウにとって非常に親しみやすいけれども同時に怖いものでもあります。
たとえば、ピカチュウが「トレーナーがいなければ、僕はどうなるの?」と考えることで、現実の不安定さと親密さを同時に感じるような状況です。
この現実は、時にはピカチュウが他のポケモンと交流するなかで変化し、自分自身の存在を再確認する場面にも似ています。

ゴンブロヴィッチが現実をフィクションや芸術と並列させるように、ポケモンの世界でも、たとえばピカチュウが「僕たちが戦うジムバトルは本当にリアルなのか、それともただのゲームの一部なのか?」と考えるような感じです。
ピカチュウは、自分の冒険が単なるプログラムされたストーリーではなく、もっと深い意味を持っているのかもしれないと感じるのです。

ピカチュウが冒険を続けるためには、プレイヤー(読者)の操作が不可欠です。
プレイヤーがどのボタンを押すか、どの道を選ぶかが、ピカチュウの体験する現実を形作ります。
このように、プレイヤーの選択がピカチュウの冒険にリアリティを与えるのです。

最後に、モーリス・ブランショの "Madness of the Day" とゴンブロヴィッチの『コスモス』を参考にすると、ナレーションの課題が浮かび上がります。
ポケモンの世界でいうと、ピカチュウが「僕が感じていることや見ていることは、プレイヤーがどう操作するかによって変わるんだ」と気づくようなものです。
このように、ナレーションそのものが疑問視されることで、メタフィクションのリアリティが構築されるのです。

指導的メタフィクション: 現実の過剰

メタフィクションにおける現実の強迫性

ゴンブロヴィッチの『コスモス』では、現実は「意味の可能性に汚染された」ものとして提示されています。
この概念は、メタフィクションにおける現実が過度の解釈を受けやすいことを示唆しており、小説の自己反省的性質を反映しています。
語り手の思考過程は、フィクションにおける現実がいかに創造され、同時に執着されるかを示しており、メタフィクション作品における観察と執着の複雑な関係を浮き彫りにしています。

過剰な現実の象徴としてのティーポット

『コスモス』の中心的存在であるティーポット(無意味なもの)は、豊かさと過剰のイメージとして機能します。
このシンボルは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の「多くの多くのもの」というフレーズに関連しています。
『コスモス』のティーポットは「カップを溢れさせる一滴」を表し、メタフィクションにおける現実がいかに我慢できないほど膨れ上がり、混沌と無秩序の感覚を生み出すかを説明しています。

メタフィクションの現実における混沌と秩序

ゴンブロヴィッチが『コスモス』で描く現実は、混沌と秩序の間の逆説的な相互作用を示しています。
最初はランダムに見えるティーポットの出現が、混沌の激化と事象の連続的な配列の試みへとつながります。
このダイナミクスは、メタフィクションにおける現実の複雑な性質を反映しています(「不可能な組み合わせはない......どんな組み合わせも可能である」)。

メタフィクションの隠喩としてのティーポット

『コスモス』のティーポットは、プロットにおける役割を超えて、メタフィクションを読むための暗黙の指南書であり、メタフィクションそのもののメタファーとして解釈することができます。
メタフィクション作品の特徴である過剰なリアリティの概念を体現し、意味と可能性が常に溢れ出るテキストと関わるよう読者に挑んでいるのです。

数学的言語とメタフィクション

ゴンブロヴィッチは『コスモス』において、現実の混沌とした偶発的な性質を描写するために数学的言語を用いています。
組合せ論、対数、確率といった概念は、現実を記述するための普遍的な「メタ言語」を作り出すために使われています。
このアプローチは、メタフィクションが数学的概念、特に無限やフラクタルに関連する概念を通して理解される可能性を示唆しています。

ゴンブロヴィッチのメタフィクション論

『コスモス』をメタフィクション作品として分析することで、ゴンブロヴィッチのメタフィクション理論を再構築することができます。
この小説が示唆するのは、メタフィクションには非直線的で、多方向的で、終わりのない解釈行為が必要だということ。
ティーポットは物体として、また星座として、小説のなかでメタフィクションの表現となります。
この解釈は、ゴンブロヴィッチを潜在的に「メタフィクションの最初の理論家」として位置づけ、メタフィクションの「多さ」がなぜ現実の過剰として定義されうるのかについての洞察を提供します。

ポケモンに喩えると

ゴンブロヴィッチの『コスモス』における現実の概念は、たとえば、イーブイが進化の可能性に悩むようなものです。
イーブイは、どの石を使えばどのポケモンに進化するかを常に考え、過度に解釈しようとします。
イーブイの進化の選択が、まるで現実が強迫的に意味を探し求めるように描かれています。

『コスモス』に登場するティーポットは、ポケモンの世界では、たとえばビリリダマが転がっているだけでトレーナーたちが過剰に反応するようなものです。
ビリリダマは「ただのポケモン」ですが、その存在が何か重大な意味をもつかのように解釈され、現実が我慢できないほど膨れ上がります。

ゴンブロヴィッチが描く現実は、たとえば、ポケモンバトルのなかで次々と予想外の技が飛び出すようなものです。
最初はランダムに見える技の選択が、実は緻密に計算された戦略の一部であることが明らかになります。
このように、バトルのなかで混沌と秩序が交錯し、複雑な戦略が展開されます。

『コスモス』のティーポットは、ポケモンの世界では、たとえばミュウが単なる伝説のポケモンを超えて、ポケモンの起源や存在意義そのものを象徴するようなものです。
ミュウは、プレイヤーにとって常に新たな発見と意味を提供し、メタフィクション作品の特徴である過剰なリアリティを体現しています。

ゴンブロヴィッチが数学的言語を用いるのは、ポケモンの世界で言えば、トレーナーがダメージ計算やステータスの最適化を行うようなものです。
組み合わせや確率を駆使して、バトルにおける最良の戦略を見つけ出す過程が、現実を記述するための普遍的な「メタ言語」として機能します。

『コスモス』をメタフィクション作品として分析することは、たとえば、ポケモンの世界における全種類のポケモンを集める試みのようなものです。
その過程は非直線的で、多方向的で、終わりのない解釈行為が必要です。
ティーポットが小説におけるメタフィクションの表現であるように、全ポケモン集めはポケモンの「多さ」が現実の過剰として定義される理由を示しています。

おわりに

ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの作品、特に『フェルディデュルケ』と『コスモス』の分析を通じて、メタフィクションにおける現実の概念の複雑さと重要性が明らかになりました。
ゴンブロヴィッチは、現実を危険かつ親密なものとして描き、それがフィクションと密接に関連していることを示しました。

特に注目すべきは、ティーポットのシンボルが『コスモス』において果たす役割です。
これは過剰な現実の象徴として機能し、メタフィクションにおける現実の膨張を表現しています。
この概念は、メタフィクションを読む新しい方法を示唆しており、読者に非線形的で多方向的な解釈を要求します。

ゴンブロヴィッチの作品に見られる数学的言語の使用は、現実の混沌とした性質を描写する新しい方法を提供し、メタフィクションの理解に新たな視点をもたらしています。

結論として、ゴンブロヴィッチは「メタフィクションの最初の理論家」として位置づけられる可能性があります。
彼の作品は、メタフィクションにおける現実の過剰という概念を提示し、文学理論に重要な貢献をしています。
この研究は、メタフィクションの本質とその読解プロセスについての新たな理解を促進し、今後の文学研究に有益な視点を提供するものと考えられます。


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