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戦争語り部(平和記念展示資料館)

平和記念展示資料館で語り部を聞いてきた。
Zoom での話であったがリアルタイムに話を聞くことで有意義であった。
また戦争を実際に体験してきた人の生の声を聴くことで考えされられる
ことが多くあった。
令和時代の日本に生きる現代人の殆どは戦争を経験していてないが、
まだ戦争を経験された人の話を聞くことができる。

今回の語り部:呉正男さん(96歳)

台湾生まれ。苗字は台湾式、名前は日本式。
幼稚園時代に日本語を学ぶ
小学校は日本語で学んだ
中学校は試験に落ちて台湾の学校に行くことができなかった。
京都の中学に行こうとするが、東京の中学に行くことになった。
中学時代は中野学園で通信技術を学んだ。
すでに戦争が始まっており、食事は配給制であった。
台湾からは月に50円の仕送りをしてもらっていた。
中学の時に志願して西筑波のグライダー部隊に配属された。
グライダーは1kmくらい静かに飛ぶことができるので
奇襲攻撃を目的とした手法である。
当初は南方に行く予定であったが、飛行機が故障したので
行くことがなくった。
東京への空襲もあり、筑波でもB29を見る機会も多かった。
空襲警報のたびに飛行機を森に隠していた。
当時は義烈空挺隊による戦果の話を後になって聞いた。
義烈空挺隊の飛行機は一部がベニヤになっており、
敵の飛行場についたらパイロットはベニヤ板を破って即座に降りて、
自ら敵の基地で攻撃するものであった。
その後、朝鮮半島に北部に配属されて、6-8月に夜間の
訓練を続けた。訓練といっても呉さんは通信兵だったので
特に役割はなかった。
訓練中の事故により無くなる兵士もいた。
6月、18歳の時に特攻隊に志願するかどうかの
意思の確認をされ、死ぬことを意識していた。
私はその死ぬということ意識したとのことを質問してみた。
特攻隊の話が来る前の17歳の時にすでに死を覚悟しており、
常に荷物の整理をしていたとのことである。
呉さんは長男ということもあり、最終的に特攻部隊に
配属されることはなかった。
18歳で終戦を迎えて朝鮮南部でソ連軍に捕まり
ソ連に抑留されることになった。
戦後の台湾は中国本土からきた外省人から迫害されており、
台湾に戻らず、ソ連に行ったことはある意味良かったことであった。
2年後に抑留生活を終え、舞鶴に帰国することになった。
その後、日本で結婚し、現在は三重県で暮らしている。

17歳で死を覚悟するということはどのようなことだろうか。
現代の10代の死因の一位は自殺であり、自ら命を絶つ人も多くいる。
死に対する価値観は戦争と現代と大きく異なることを実感した。

戦時中、戦後、という激動の時代を生きぬいた人の話を
直接聞く機会は大変参考にあった。当時は国ために生きる、
または死ぬ、死んだあとは靖国で会おうという人生であったようだが、
現在はそのような考え方を持つ人はほとんどいない。

我々もこれからの時代にどのように生きるのか、
呉さんの人生を参考に考えてもよいかもしれない。
何のため生きるのか、死ぬとしたらなぜ死ぬのか。

※NHKラジオにも取材してもらいました。
私の声が8/15 19:00 の番組で放送されるかもしれないとのことです。

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