8/9 「来る」が来た!

アマプラで「来る」を観た。個人的にはすごく面白かった。2回観ちゃった。
「ホラー」としてはどうか、という感想も多かったし、私自身も、「夜トイレに行けなくなっちゃう!」みたいな怖さよりも、エンタメ的な、漫画的な面白さが強かったと思うけれど、それでもこれはやっぱり「ホラー」だと思う。
しかもかなり普遍的な、人間存在に関する「恐怖」の映画。

そもそも所謂「ホラー」の怖さって何なんだろうか。「ホラー」にも色々とジャンルがあるので、一概には言えないのだけれど、私個人の感覚でいうと、それは「わからない、決定的な断絶を抱えた存在が隣にいる」ことへの恐怖だ。
それは私が到底「理解できない存在」であり、意志の疎通が不可能であり、行動の理由もわからず、けれど、その理解不能な「意識」は確かに存在している、ということだ。
そしてその意識は、最悪なことに「悪意」という形でこちらを害している。
だから個人的には、その「悪意」根本的な原因であるとか、特定の、当該ケースにおけるその発生の「理由がわかる」ことは、その得体の知れない「怖さ」を損なう気がする。

この映画で言えば、「あれ」の正体とか、「あれ」がどうして彼らを襲うのか、とか、そういう明らかな描写が無いことは、個人的には好きなポイントだった。「理由のわからない」、本人からしてみれば「理不尽な悪意」に直面する恐怖ったらないから。

ただ、「あれ」の存在に関して明確な説明はなかったけれど、でも、その「在り方」に関してはものすごく、執拗にと言っていい程描写が重ねられていた。と、個人的には思った。
それが多分、かなり丁寧に積み重ねられた前半から中盤にかけての日常描写だ。

知らない親戚の中に一人で放り込まれた時の、あのどうしようもなさ。田舎の親戚同士の目に見えないハラスメント。つながりの薄い友人同士のあの、探り合いや評価の視線。他人の目と、自分の欲望と。嫉妬や優越感や、軽蔑や、打算。誰かの存在を疎ましく思って、いなくなって欲しいなあ、なんて軽率に、冗談混じりに祈ってしまうような、あの、「日常」の中の「嫌さ」。
作中で「子供を浚う鬼の正体は、子供を殺して山に捨てる親の言い訳」的な言葉が出て来るけれど、多分、まさに「そう」なのだ。

例えば実際に「殺して捨てる」なんてことをしなくても、誰かを「いなかったらいいな」と望むこと。ほんの少しの「邪魔だな」なんて「思い」が、多分「あれ」を作っていくんじゃないだろうか、って、そんな風に感じた。
「死んで欲しい」「いなくなって欲しい」そう誰かから思われた人のところに「あれ」はやって来て、そうしてその人を山に呼ぶのかもしれない。だってきっと、「死んでくれてよかった」と喜ぶ人がいるから。その人の代わりに山に呼ぶのだ。

そして、そういうほんのちょっとの「悪意」はどんな日常にも潜んでいるんだろう。それは、隣で笑っている友人から向けられるものかもしれないし、会社の同僚かもしれないし、妻や夫かもしれないし、実の親かもしれない。
「あなたがいなければよかった」と望まれること、それが「あれ」の本質なんじゃないかと、そう思うのだ。

いやーほんと、例の後半のスーパー除霊シーンもめちゃくちゃ面白かったけど、前半のあのどうしようもなさの積み重ねが、個人的にはすごく良かったな…。
あんなにどうしようもないのに、見せ方がエンタメ的で、キャラクターがある意味漫画的な誇張をされていたからか、そこまで精神的ダメージを受けずに観られたし。
いや、でもあのキャラクターたちは、確かに誇張されていたけれど、でもそこにあるのは誰しもが思い当たるような「弱さ」だった。
そう言った部分でも、「あれ」の存在が、自分と地続きになるような怖さがあって、やっぱりこれは「ホラー」だったよ。

「わからない、決定的な断絶を抱えた存在が隣にいる」ことへの恐怖、とはつまり他人の存在なのだよね。

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