【自分の知ってる範囲で語ろうとするのは無知の現れ】

「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」

夏目漱石の名作『こころ』に出てくるKはこの言葉を先生に投げ掛け彼の向上心の無さを責めました。その言葉は先生の心に深い闇をつくり、お嬢さんへの恋心を抱いてからは、自身の劣等感とKに対する負い目になりました。奪われた自尊心を取り戻すため、先生は同じ言葉をKに投げ掛けお嬢さんを半ば強引に嫁にもらいますが、Kはその言葉の後に自殺をしてしまいます。先生はなぜKが自殺したのか、その真相に永遠に至らぬまま生涯を終えてしまいます。

このエピソードを冒頭に書いたのには理由があります。自身の知り得ることだけで相手や物事を測ろうとするととんでもない過ちを犯してしまうという戒めを知ってもらいたかったからです。先生は当時の社会からみればどちらかと言えば幸福な立場で、大学に進み文学という将来に不安を覚えかねない学部の中でも勉強を続けていました。そのためか、自分の知識や見解にもそれなりに自信を持ち合わせていました。それは強力な武器にもなり得ますが時として弱点にもなり得るのです。自分にはどんな問題が起きても自分のなかにある見識で対処できる、そう思い込んでしまうことがあるのです。その奢りがKの本当の悩みに気づく余地を与えず、自身の過ちを生涯悔いることになったのだと思います。そうそれこそ、精神的に向上心の無いものは馬鹿だという言葉がそっくりそのまま帰ってきて、あの顛末に陥ったのだと感じるのです。

冒頭の言葉は現代に生きる僕らにも当てはまります。よく英語を訳していると思うのですが、日本人は自分の知り得る単語の意味と文法上のロジックにしたがって和訳を成立させている場面に多々出くわします。僕自身、分からない単語があったとき回りの知っている単語の意味から分からない単語の意味を強引に作り出し文を作ってしまうことがありました。なので先生にはよく「お前の和訳は和訳ではなく創作だ。お前の都合のいいように単語の意味をつくり文を完成させている」と叱咤されました(笑)自分の知っている範囲で、和訳を作っていたのがら訳しているとは確かに言えません。ですがその時の僕は、これは意訳です。と訳の分からないことをほざいていました。よく日本人にありがちなんですが、意訳とは分からないものを自分の知っている範疇で意味を補完するのではなく、単語同士の微妙なニュアンスを文法上から少しはずして柔軟に表現することを指します。 ですので、分からないものを補って訳を作るというのは厳密には間違っているのです。

じゃあ分からないものに出くわしたときにはどうしたらいいの?という問題にぶつかるかと思います。その答えはとてもシンプルで分からないものを分からないと認めることです。そのあとに辞書なり専門家に聞くなりすればいいのです。自分の知り得る知識だけで答えを出そうとするのは浅はかで愚かです。そんなんではいくらたっても自分の求める解答には辿り着けません。Kが自殺する前に、Kが先生に心中を吐露する場面があります。先生はその時自尊心やエゴイズムなどに囚われることなく正面からKと向き合っていたら、Kの本当の悩みに気づくことができ友人として関わっていけたかもしれません。文学の世界にもしもはタブーですが、あの作品は人間の愚かさをどう考えるかが争点だと僕は思っています。ですので、今回偉大な夏目先生の作品を枕にこのテーマについて考えてみました。こうして改めて考えてみると文学とは恐ろしく難しく、また同時に人間とは何かという壮大な哲学に挑んでいる創作物のひとつだとしみじみ思いましたが、皆さんはどうでしょうか?これも僕が自身の偏った知識から出てきたゆえの曲解だとそう思いますか?

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