【ガチ書評】ロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」 第六章

本投稿はロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」を解説する。
書評だろうが解説だろうが誰も気にしないことはわかっている。

今回は第六章「信長の死後の弥助」を取り上げる。


 書き出しでは、イエズス会側の書簡では弥助は生きて南蛮寺(=教会)に戻っていることからまだ死んではいないため、弥助に似た人物の目撃談を検証し、その後の人生を推測したいとしている。

 この書評/解説の序盤で述べたが、著者は弥助の人生をすべて作り上げたいのだ。
 この章で信長前、信長、信長後のすべてのピースがはまり、次の第七章でその全容が語られる。
 乞うご期待。

 本章の構成は以下のとおりである。

 ①日本の黒人に関する文献
 ②奴隷だった可能性
 ③解放奴隷だった可能性
 
 かなり短い章である。


①日本の黒人に関する文献

 ここでは当時の日本の黒人に関する文献の少なさを示している。
 三つほど取り上げているが、「どれも違う」が著者の結論なので、細かくは言及しない。

 一つだけ伏線じみたものを感じたのが、長崎の大名、有馬晴信の本陣でたまたま居合わせた黒人が誰も使い方のわからない大砲を操って見せたというものだ。
 一五八四年のできごとらしい。
 この文献が一番弥助の可能性あるように感じるが、著者は飛びつかなかった。
 そう、まだこの段階では。


 ②奴隷だった可能性

 ここでは弥助が日本に来た際に奴隷であった可能性に触れている。
 ヴァリニャーノが日本を出国したのは、一五八二年の二月二十日であるらしい。本能寺の変の四か月ほど前だ。
 著者によれば弥助はヴァリニャーノの従者に戻らなかったのではないかと言う。
 ヴァリニャーノはその後、十年間インドのあたりで巡察師として仕事をし、日本に再度来たらしい。

 それから、本能事の変の際、弥助は南蛮寺が近くにあったにも関わらず、イエズス会に戻らなかったのは信長への忠誠心や下された特命(覚えてる?)を果たすためにその選択肢が浮かばなかったのかもしれないとしている。

 解釈は自由である。


 ③解放奴隷だった可能性

 ここでは弥助が日本に来た際、解放奴隷であった可能性は充分にあったとしている。
 その場合はイエズス会から離れて利益のために働く自由があった。

 その場合は弥助はかなり裕福であったはずだが、本能寺の変の際に携行していたもの以外はほとんど失われてしまったのではないかと語る。
 弥助の家は安土桃山城にあり、明知勢がほとんど焼いてしまったからだ。

 もし弥助に私財が残っていたら、事業を始めていたかもしれない、とある。
 さすが著者。

 他にも当時の世界背景と共に、傭兵や船員や海賊になった可能性もあるとしている。

 信長の死後、弥助はイエズス会に縛られていたわけではないので何でもできたはずだ、と言われればそのとおりだが、弥助は自分の人生を自分で決断したことがないかもしれない。

 著者によると「世界ふしぎ発見!」ではモザンビークに帰ったのではないかとし、着物を「キマウ」として広めたとかなんとかいう説を唱えていたらしい。
 ちなみに、著者がモザンビーク大使館に聞いても「キマウ? なにそれ?」だったらしい。

 もう一つモザンビークに帰った説が否定される根拠として、渡航費が莫大になるから、としている。

 最終的な結論として、信長の死後の弥助の足取りについては「わからん」としている。

 うん、知ってた。

 さて、次はお待ちかねの七章「弥助の生涯を推測する」を取り上げる。 


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