【おまけ】「岡 美穂子 つなぐ世界史 2中世」ロックリー・トーマス記述部分の解説

 該当する箇所は、第一章「16世紀の世界」、見出しは「信長の黒人「サムライ」弥助」、著者はロックリー・トーマスである。
 内容は「信長と弥助」の内容をロックリー氏のクセを20倍ぐらいに希釈して、要約したような内容であった。
 
 構成は以下のとおりである。

  ①弥助とは?
  ②信長との対面から従者へ
  ③その後の弥助 
  ④現代の弥助

 書き出しでは、信長は世界的にあまり有名ではなかったが、弥助が世界的に人気になって、一緒に有名になっていった旨が書かれている。


①弥助とは?

 冒頭に「弥助の出身は分からない」とある。
 また、ポルトガルの要塞や奴隷市場があったモザンビーク島を経由してインドに渡った可能性があるとしている。
 これは「信長と弥助」の七章と繋がる箇所である。

 続いてヴァリニャーノの説明がなされる。イエズス会のアジアでの布教に対して、改革をすることが目的であったらしい。
 日本に到着するまでのルートは、インド→マラッカ→マカオ→日本である。


 ②信長との対面から従者へ

 ここは弥助の日本でのエピソードである。

 弥助を見ようと欄干に上った人の重みで建物が損壊した、とあるが一次資料にそこまで仔細な記述はなかったように思う。
  ※一次資料では「数軒の店を荒らした」である。

 続けて人が押し寄せて圧死者が出る寸前だったとあるが、これも一次資料では投石ではなかったか。
  ※一次資料では「投石のため負傷者を出し、また死せんとする者もあった」である。

 こういう細かい一次資料とのズレは大事にした方がよい。「この程度の盛りはいいだろう」と著者が思っているということだ。つまりその後のエピソードの信用を自ら損なっているのだ。

 次は信長とのエピソードである。
 「信長と弥助」でも同様の記述があったのだが、信長は弥助を歓待するために盛大な宴を開いたらしい。
 これも一次資料にはない。

 さらに、本当に弥助が「サムライ」となったかについては議論があるものの、と続く。

 一次資料から文脈を読み取っても、「侍ではなかった」または「侍であってもお飾りのコスプレサムライであった」とする方が自然に思える。少なくとも、侍として誰かから頼りにされることがあったとは考えにくい。目立つ側仕えとして、荷物持ちなら任せてもよかったのだろう。

 さらに一次資料になく断言していることをもう一つ付け加えると、「弥助」と名付けたのは信長であるということだ。
 一次資料からズレるところは他にもあるが、割愛する。

 弥助が本能寺にいた/いなかったに言及がないが、「信長も近侍たちの兵も」戦った、そして「弥助は逃げ出さず」と続けることで、「本能寺にいた弥助は信長の死後も逃げ出さず、信忠のもとに馳せ参じた」と誘導したいのかもしれない。
 それは失敗している印象なので安心した。

 ただ、前段でさんざん話を盛っておいて、ここでそのとおりに書かなかったのはなぜか、という違和感がある。
 個人的な経験からすると、こういった違和感は誰かの指摘のうえで残ってしまうことが多い。
 特に、安易に言葉の足し引きをするとそうなってしまう。

 一次資料にないことの肉付けはOKだが、一次資料でまったく裏付けができていないものはNGになったんだろうか。

 続いて、あの有名な「相撲遊楽図屏風」などについて言及している。
 細かい描写はGoogle先生に譲るとして、ここに書かれている肌の黒い人が弥助ではないか、という話だ。
 これは一六二〇年から一六三〇年あたりに書かれたものらしい。
 弥助が姿を消してから四、五〇年後の作品ということになる。

 他にも黒人と思われる人物が書かれた火薬入れや硯箱があることから、「日本人は大柄で屈強、肌の色の濃い人々への好印象があったと理解される」としている。
 何かちょっと引っかかる物言いである。そう誘導したいのであろうか。


 ③その後の弥助

 ここも弥助の日本でのエピソードである。
 前半は甲州征伐(織田vs武田)のことが書かれ、その内容は以下のとおりである。
 ・信忠が武田家を滅ぼした
 ・信長はその後、検地に入った
 ・信長は安土への帰りに徳川家康のところに寄ったWith弥助(←家忠日記)

 後半は本能寺の変のくだりである。
 弥助は逃げ出さず、信忠のもとに馳せ参じ、共に戦ったとある。
 が、弥助が本能寺で戦ったという記述はない。
 ロックリー氏が一番大事にしていたはずなのに、それが書かれていないことが強い印象として残った。

 そもそも、弥助が投降したのは妙覚寺で、つまり信忠と一緒に戦っていなかったという説もあるし。


 ④現代の弥助

 冒頭で弥助が「勇猛で屈強」とあるが、「勇猛」はロックリー氏の妄想である。「屈強」は一次資料から読み取れるからアリだ。
 続けて、弥助が近年になって有名になったいきさつが書いてある。
 ここでは終始著者のテンションが高い。

 恐ろしいのは最後である。ママ引用する。

 「アフリカ人のサムライ」弥助の驚くべき物語は,史実を越えてフィクションの世界でより一層輝いている。弥助の生涯に関する史料は今後も見つかる可能性があり,多様な文化の中で彼の姿はトランスレーションされ続けるだろう。弥助の話はまだまだ始まったばかりなのだ。彼の物語は書き換えられるかもしれない。

岡 美穂子. つなぐ世界史 2中世 (pp.47-48). 株式会社清水書院. Kindle 版.


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 ‬|д゜)チラッ
 |彡サッ

 個人的な感情は【雑記】で発散する。
 以上である。

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