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イエス・キリストの黙示 ②



――
わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。…
――



「サタンの集い」
は、実にくもの糸のように、この地上にあまねく張りめぐらされている。

そうやって、人々を惑わしながら、蝮の卵を食べさせて死に至らしめ、卵をつぶそうとすれば、毒蛇が飛び出すように仕組まれている。

まるでくもの巣のような「彼ら」の集いには、いかなる救いも平和もない。「彼らの計画は災いの計画。破壊と崩壊がその道にある…」と書いてある通りだから。

冒頭でも述べた通り、私は、「彼ら」の誰であるのかを知っている。

「彼ら」がかつての時代において、何をして来たのかも知っている。

いかなる災いの計画で、千の数千倍、万の数万倍に及ぶ、罪のない人々の血を流して来たのかも、

ただただ、自分たちの権威と力と支配のためだけに、いまもなお、同様のはかりごとを企てようとしているのかも、

すべてすべて、知っている。

私が、というよりも、わたしの神である「イエス・キリスト」によって、いっさいは見抜かれている。

それゆえに、

「バビロンは倒れた」と預言されている通りに、「彼ら」の陰謀はことごとく失敗に終わり、「偽りのユダヤ人たち」は互いに戦い合って、自滅し、全滅の道をたどるのである。

それが、「サタンの集いに属する者たち」の受ける分だからである。


言いたいことは、ただひとつ。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」

という聖書の言葉は真実である。

真実であるがゆえに、

千の数千倍、万の数万倍に及ぶ男たち、女たち、子供たちの流した血は、けっしてけっしてそれら弱き人々のせいではない、ということである。

弱き人々の流した血は、けっしてけっして「自己責任」なんかではなく、「偽りのユダヤ人たち」の責任である。

これについて反論がある者は、私をしてこう言わしめている裁きの主、イエス・キリストに向かって言うがいい。


私もまた、わたしの神、イエス・キリストに向かっては、言いたいことが山のようにある――それがゆえに、この文章の筆を執ったのだ。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」

という言葉は真実である。

真実であるがゆえに、

事前の説明も警告も同意もなきままに、よくもまあ、そんなフザケタ戦争に、無報酬で人を徴兵してくれたものである。

さらには、よくもまあ、そんなフザケタ世界に、当然のごとく人を生み落としてくれたものである。

「もろもろの支配」であれ、「権威」であれ、「やみの世の主権者」であれ、なんであれ――「彼ら」は、私の想像するよりもはるかに強大で、はるかに邪悪で、はるかに執拗であった。

その巨大さと、凶暴さと、執念深さと――あらゆる点において、「天上にいる悪の霊」とは、突出した闇の勢力に違いなかった。

私は、あまりにナイーブで愚かだった頃にあっても、そんな闇を自ら進んでのぞき込んだことなど、一度もない。

あまりにナイーブで、あまりに愚かであったとはいえ、いったい誰が好き好んで、そんな愚を犯したりしただろうか。

聖書の表紙を開いたことが、

神を知りたいと願ったことが、

そう願って教会を訪ったことが、

まさかまさか、そんな「愚」を犯すことになろうだなんて、どうしてどうして、予想できただろう――!


そう文句を言い連てみたところで、いま目睫に横たわった「事実」が、歩かされて来た「過去」が、変わるわけではない。

この地上に生まれ落ちたその瞬間から、私はすでに闇の中にあって、「彼ら」の手によって育まれていたのである。

いわれもなく、否も応もなく、それこそ毎日のように、蝮の卵を食べさせられていた――それが、厳然たる「事実」である。

そして、イエス・キリストを知ろうとしたその瞬間から、当たり前のように、私は戦わされた――卵をつぶそうとすれば、中から毒蛇が飛び出した。

「サタンの集い」に集う人々は、私などよりも、ずっと狡猾だった。「偽りのユダヤ人たち」の恐ろしさとは、そのあくなき欲望、破壊の執念、独占の追及だった。

いっさいを糧にしてしまおうとする、強靭な意思――

人を人とも思わない、すべての人もすべての被造物も、己の野望の炎の糧でしかないような、底なしの意思――

それが、私がまだ年端も行かぬ頃から向き合わされ続けて来た、「くもの巣の正体」であったのだ。

そんな「戦争」に、だれが自費で行ったりするだろうか――

だれがみずから好き好んで、無報酬で「徴兵」されたりするだろうか――

だれがだれが、こんな「戦争」だとあらかじめ知っていたならば、聖書の表紙なんかを開いたりしただろうか――!

そう抗議を積み重ねてみたところで、まことに残念ながら、「事実」に目覚めることはまた、「神の恵み」なのである。

たとえ、けっしてのぞき込みたくもなく、終生知りたくもなかったような「事実」であったとしても、

事前の同意もなく徴兵された「戦争」であり、有無を言わさずに連れさられた「荒野」であったとしても、

蝮の卵に気づくことが、

くもの巣の正体を知ることが、

「神の恵みの業」なのである。

なぜならば、ここで私の言う「事実」とは、「嘘偽りのない現実」のことだからである。


「嘘偽りのない現実」に目覚めた時、人は往々にして、絶望の淵に追いやられしまう。

自分の相対した敵の、その圧倒的な強大さと邪悪さとを前にして、己のあまりの無力さと、神の無情なる不在感とに、打ちひしがれてしまうからである。

しかししかし、

恐れることなど、なにもない。

「偽りのユダヤ人たち」にいかなることができたとしても、せいぜい、この地上の人間界を支配する――ひっきょう、その程度の大資本家や、権力者や、権威者といった類の「人」になれるばかりである。

あらゆる嘘や、妄言や、綺麗事やによって、海辺の砂のような数多の人々を騙し、惑わし、たぶらかすことができたとしても、せいぜい、そこどまりである。

はりめぐらされた「くもの巣」がどれほど巨大で、「サタンの集い」がどれほど狡猾で、「偽りのユダヤ人たち」がどれほど執念深くあろうとも、「彼ら」はしょせん「人」の塊である。

「天上にいる悪の霊」のどれほど邪悪であろうとも、その駒とは、あくまでも「人」にすぎない。

そして、「人」である以上は、「人」の思い及ぶ範囲までしか、行き着くことができないのである。

「ここまでは来てもよいが越えてはならない。」

という神の言葉の通りである。


それゆえに、

「お前は一生に一度でも朝に命令し
曙に役割を指示したことがあるか
大地の縁をつかんで
神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。
大地は粘土に型を押していくように姿を変え
すべては装われて現れる。
しかし、悪者どもにはその光も拒まれ
振り上げた腕は折られる。…」

とか、

「お前は雪の倉に入ったことがあるか。
霰の倉を見たことがあるか。
災いの時のために
戦いや争いの日のために
わたしはこれらを蓄えているのだ。…」

このような神の言葉から、私のように「文句なしの恵み」の香りを胸いっぱいに吸い込むことは、「偽りのユダヤ人たち」にはけっして許されていない。


また、

「お前は雌獅子のために獲物を備え
その子の食欲を満たしてやることができるか。
雌獅子は茂みに待ち伏せ
その子は隠れがにうずくまっている。
誰が烏のために餌を置いてやるのか
その雛が神に向かって鳴き
食べ物を求めて迷い出るとき。」

とか、

「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。
雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。
月が満ちるのを数え
産むべき時を知ることができるか。…」

このような神の言葉から、私のように「文句なしの憐れみ」の光を見つめて瞳を輝かせることは、「サタンの集いに属する者たち」にはけっして許されていない。


また、

「見よ、ベヘモットを。
お前を造ったわたしはこの獣をも造った。…
これこそ神の傑作
造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。
山々は彼に食べ物を与える。
野のすべての獣は彼に戯れる。…」

とか、

「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ
その舌を縄で捕えて
屈服させることができるか。
お前はその鼻に綱をつけ
顎を貫いてくつわをかけることができるか。
彼がお前に繰り返し憐れみを乞い
丁重に話したりするだろうか。
彼がお前と契約を結び
永久にお前の僕となったりするだろうか。…
彼のからだの各部について
わたしは黙ってはいられない。
力のこもった背と見事な体格について。…
この地上に、彼を支配する者はいない。
彼はおののきを知らぬものとして造られている。
驕り高ぶるものすべてを見下し
誇り高い獣すべての上に君臨している。」

このような神の言葉から、私のように「文句なしの救い」の響きを聞き分けて胸を躍らせ、喜び歌うことは、「この世の支配者たち」にはけっしてけっして、許されていない。


「信仰」があればこそ、

ただひとえに「信仰」があればこそ、

アブラハムの系図的な子孫でもなく、血肉のユダヤ人でもなかったヨブというひとりの男に向かって語られた、上のような神の言葉から、

「イエス・キリストの黙示」を、はっきりと聞き分けることができるのである。

たとえばヨブのように、

たとえば私のように、

それをしっかりと聞き取った者には、

もはや恐れることなど、何もありはしない。

なぜならば、自分の内に宿った「信仰」こそ、「主の主、王の王であるイエス・キリスト」であり、「インマヌエルの約束の成就」だからである。

「インマヌエル」こそが、神のすべての約束の「核心」であり、「奥義」である――そしてこれこそ、「天上の悪の霊」が永遠に喪失したものであり、「偽りのユダヤ人たち」の永久に失うものなのである。


それゆえに、

「起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。」

この「あなた」とは、イエス・キリストのことであり、「起きよ」とは「復活せよ」ということである。

また、

「あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。
あなたの民は皆、主に従う者となり
とこしえに地を継ぎ
わたしの植えた若木、わたしの手の業として
輝きに包まれる。
最も小さいものも千人となり
最も弱いものも強大な国となる。
主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。」

この「あなた」とは、私のように「信仰」という復活したイエス・キリストの霊を与えられた者たちのことであり、「主なるわたしは、時が来れば速やかに行う」とは、「キリストの再臨」について語られているのである。

それゆえに、

「 霊”と花嫁とが言う。「来てください。」
これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。」

という神の言葉のとおりに、私は今日も、唇を奏でるのである。

今日という恵みの日において、明日という希望の日ために。

なぜとならば、

「信仰」とは、神の言葉に呼応する「永遠の歌」だからである。


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