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永遠の命(同じ神の違う顔)

「わたしは顔と顔を合わせて神を見た」と、ヤコブは言った。その神とは、祖父アブラハムの神でも、父イサクの神でもなく、ほかならぬ、ヤコブという自分の神、すなわち「ヤコブの神」だった。

「噂に聞いていた神ではなく、わたし自身の目をもって神を仰ぎ見ました」とヨブは言った。ヤコブとよく似た言葉だった。ヨブもまた、「ヨブの神」に出会ったのだった。

こんなふうに、わたしたち人間ひとりひとりが、ほかならぬ「自分の神」と出会い、顔と顔を合わせて「わたしの神」を仰ぎ見て、ほかならぬ自分の口をもってそう言うことこそが、イエスの言った「永遠の命」である。

「わたしの神」、「いま生きている神」、「わたしだけにしか見せないような顔をした神」、――そんな神に出会いました! と、こらえきれないような喜びの中で、叫ぶことこそが。

わたしは、「わたしの神」に、出会ったことがある。

そしてまた、わたしは、「わたしの神」を、いつもいつも、いつもいつも、いつもいつも、尋ね求めつづけている。

それゆえに、アブラハムの神と、ヤコブの神と、モーセの神と、ダビデの神と、エレミヤの神と、ヨブの神と…(並べていけばキリがないが)、これらの人物たちに現れた神が、同じ神であるにも関わらず、「ちょっとずつ違う顔」をしているのを、知っている。

それは、同じ神が、それぞれの登場人物のためだけに見せた、「違った顔」である。

例えるならば、ある女が、恋した男にしか見せないような顔。ある男が、愛した女にしか見せないような顔。やっと巡り合えた最愛のパートナーが、自分だけに見せる顔。そして、最愛のパートナーに対してしか見せないような、自分の顔。――そんな顔である。

そういう「わたしだけに見せるような神の顔」こそが、「ヤコブの神」であり、「噂に聞いていた神ではなく、この目をもって仰ぎ見た神」なのである。

神が見たいと思っている、「わたしたちの顔」も、「神にしか見せないような、わたしたちの顔」である。

わたしは、「わたしの神」を「わたしだけの神」を知っている。
そして、まだまだ知らない、「この広い世界でたった一人の、わたしだけに見せるような神の顔」を、今もなお、また、これからもずっと、ずっと、ずっと、ずっと、祈り求め、探し続けていく。

わたし自身もまだ知らない、「神にしか見せないわたしの顔」も、楽しみである。

わたしは、「わたしこそが、この広い世界における、神の最愛の人間である」と言い切って、なんのはばかりもない。

本来、すべての人間が、同じように、「わたしこそ、神の最愛の人である」と、自信と確信と希望と喜びを持って、言っていいのだ。

そういうふうに、歓喜をほとばしらせながら、天にむかって叫び声をあげることこそが、永遠の命なのだから。

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