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子よ、あなたの罪は赦される ②


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イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
――


人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう――

このようないかにもはっきりとした、いかにもゆるぎなき力強さに満ち満ちた言葉遣いをもって、かつてイエスなる人の子は、寝たきりの身だった中風の人の罪を赦した。

それに加えて、もはや足腰も立たなくなっていた同じ人にむかい、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語りかけることによって病を癒し、癒されたその人は床上げし、立ち上がることを得たのだった。

――これが、私の言っている終点であり始点である。あるいは、始点であり終点なのである。


たとえば、

私は、『わたしは主である』という文章において、私の荒野の旅の終点の光景をば、モーセよりも感動的に書き綴った。

また、『キリストの子』という文章においては、イエスの腕に寄りかかるようにして荒野から上がって来た私の、次の旅路の始点の啓示を、サムエルよりも感動的に書き表してみせた。

『ソドムとゴモラ』という、アブラハムなんかにはぜったいに書き得なかった美しい文章の締めくくりの一文においては、「あなたは明日、ツォアルの町に帰りなさい」というイエスから語りかけられたひと言を書き留めることを得た。

そのひと言とは、『神の義』において雄弁に物語ったように、イサクを神に捧げるような信仰を、この地上における我が人生の中で実際に行ってみせたからこそイエスの口ずから語りかけられたひと言と、同じだった――

すなわち、「子よ、あなたの罪は赦された。起きて、床を上げなさい」

こんなすべてを紛れもなき現実の出来事たらしめたのは、ユダヤ教キリスト教といった人の宗教でもなければ、人の浅知恵を寄せ集めた宗派教義神学でもなく、そんなみすぼらしいあてがいぶちの説教集を吹聴してまわる巷の諸教会なんかでもない、

ただただ、今と昔と永遠を生きる、わたしの神イエス・キリストだけである。

そしてそのためにこそ、イエスはかつて母の胎内にいたころから私を憐れみ愛し選び分け、右も左も分からなかった頃より信仰を与え、その信仰によって、この世のユダヤ教キリスト教から離れ去らしめ、肉的にも霊的にも聖別させたのだった。


それゆえに、

私の言っていることなど、実にもって単純明快な事柄でしかない。

どこぞの土地を与えると約束された(とか主張してやまない)特定の民族なんかに、「人」の罪は赦せない――

そこに何百年何千年の歴史があろうとも、たかが「人」の系図だの遺伝だの慣習だのを祀り上げているような宗教なんぞに、他者の罪はおろか、自身の罪をさえ赦すこともできはしない――

そんなたかが「人」が編纂し、編集し、翻訳し、刊行し、売りさばいている聖書の解説、研究、分析の類なんぞを誇りちらかしている、ありうる限りの結社集会共同体が、「私たちの慣習たるバプテスマ」を授けることによって、いったいこれまでにどんな罪を赦し、これからもどんな病を癒すことができるというのか――

ただただ、

ただただ、

今この時を生きている「イエス・キリストの霊」だけが、「あなたの罪は赦された。だから床を上げて、家に帰りなさい」というふうに、自ら語りかけることによって、人の霊、心、思い、肉体、時、人生の上に終点と始点とをもたらすことができるのである。

そのような今も昔も永遠に生きるキリスト・イエスの霊とは、巷の目抜き通りにそびえたった教会なんぞいう建物を通して以外には、知り、出会い、交わることを許されない、まるで囚われの身たる不自由なメシアなのであろうか、

もしもそんな事をば主張する者がいるのならば、「どうして地獄の罰を免れ得よう」――!


こんなにも当たり前な、火を見るよりも瞭然とした、一脈の嘘も偽りもなき明々白々たる真実をば、いかに喉を嗄らして力説しようとも、バカと人殺しと詐欺師には、「聞いても悟らず、見ても認めない」という預言のとおりに、永遠に分からない。

もしも分かったところで、彼らは「バビロン」からは――長年慣れ親しんだ愛すべき経済圏からは――けっして「離れ去る」ことなどできはしない。

なぜとならば、彼らはそこを離れれば食いっぱぐれ、路頭に迷い、何をどうすればいいのかも分からないまま、ただただ金の匂いのする方へ方へと右往左往するばかりの見苦しき運命の下に生まれついてしまっているからである。

それゆえに、しょせんは金儲けを目的とした諸教会なんぞにしがみつくことをやめられない偽預言者と偽りのユダヤ人たちとは、もはや永久に聖別されることもなく、キリストの洗礼を授かることもできず、からし種ひと粒ほどの信仰をも与えられることがない――

そのようにして、今日も町の教会へ通いつめては、アーメンごっこにハレルヤごっこにユダヤ人ごっこにイエス様ごっこにをくり返し、

くり返していればこそ、己の罪に終生気づかず、あらゆる罪も知らず、そんな罪と血を流して闘うこともできずにしまうのである。

もしももしも、いやしくもキリストによって「バビロン」から「荒野」へ誘われ、ふたりぼっちの世界でじゅんじゅんと語りかけられようとも、彼らは「バビロンの肉や魚、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」と言ってわめき立てるしか能がない、

能がないから、かつてエジプトから上がって来た愚かな先祖たちが荒野で死骸をさらすハメになったように、

この世のユダヤ教キリスト教の祭司長老伝道師宣教師神父牧師信徒教徒といった、人の生き血でもって私腹を肥やしている「怒りの器」たちの終点とは、末路とは、地獄の罰とは、

一片の憐れみもかけられることなく、徹底的に滅ぼし尽くされること――これに尽きるのである。


子よ、あなたの罪は赦された――

このイエス・キリストの、キリスト・イエスたる憐れみの言葉を聞くことができるのは、イエスの名前を知る者だけである。

キリストを死者の中から復活させた、父なる神の憐れみの顔を見る者だけである。

ユダヤ教だキリスト教だ聖書だ教会だのいうものの、かそけき影すら存在しなかった天地開闢の昔から生きており、今この時も、そしてこれからも永遠に生き続ける「イエス・キリストの霊」と、激しくまぐわう者だけである。

わたしはあなたに言う、起き上がり、床を担いで家に帰りなさい――

イエスを愛し、イエスから愛された者だけが、まるで胎内に子種を放たれるようにして与えられる「信仰」――それによって、はじめて、この世の価値基準においてはまったくの無知無学無教育無教養無価値無修練…な者であったとしても(むしろそうであればこそ)、己の罪を赦されて床上げし、自らの足で立ちあがり、強く雄々しく、歩き始めるのである。

荒野を旅することのできたのは、荒野へ誘われた者だけであったように、罪を赦されるのもまた、赦されたと語りかけられた者だけであり、

ネボ山の頂に登ることのできたのは、そうするように命ぜられた者だけであったように、床を上げて起きるのもまた、そのように促された者だけである。

すべては、ただ「神」が自らの意思によって行うことであって、その権威と権限をこの地上において与えられたのが「イエス・キリスト」なのであり、

だからこそ、イエスはキリストであり、キリストはイエスであり、またそして、「わたしはアルファであり、オメガである」のである――。


そこで最後にはっきりと言っておく、

すべて選ばれた者は、自らの選ばれたことを知っている。

だから選ばれた私は今日もまた、わたしの神イエス・キリストを選び取る。

このような「信仰」見て、キリスト・イエスは、父なる神は、聖霊は、今日も私に語りかける、

「誰もやらぬのならお前がやれ、お前がやらねば誰がやる」

だから私は、答えて言う、

「誰もやらぬのなら俺がやる、俺がやらねば誰がやる」


――
するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。
誰が我々に代わって行くだろうか。」

わたしは言った。
「わたしがここにおります。
わたしを遣わしてください。」

主は言われた。
「行け、この民に言うがよい、
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
――


※2024.2.22 『終点と始点』から改題

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