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慈しみを惜しまれない神 ①


「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」

ルツ記にこんな言葉がある。

また、

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

とイエス・キリストは言った。

この二つの言葉、一見、矛盾しているようだが実は矛盾していない、という話をしようと思う。



つい最近も、センスの無い「レビ人」たちが、お経を上げて香を焚くようなお葬式に対して、

「ボクは、人間の作ったものに頭を下げるのはヤダ」
「ワタシは、それが「証」にもなるから、香を焚かない」

などなどと、

トンチンカンにしてマトハズレもいいところのご卓見をば、得意満面の笑みと、大真面目なまなざしとをもって宣う宗教家たちの様子をば目撃したことがある。

自らを「神に仕える身」などと公言しながら、どうしてこうも「神の本質」を分かっていないのだろうかと、心底からゲンナリさせられずにはいられなかったものである。

そのような人々においては、

「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」

という言葉の真意が、まったく理解できていないのだろう。

「慈しみを惜しまれない」というのが、すなわち、神の本質ではないか。

ならば、死者を悼んで、お経を上げ、安らかな成仏を祈り、生前の思い出に感謝や涙を捧げつつ、お香を焚いている「異教徒」たちの行為の方が、どれだけ「慈しみ」に近しい表現であろうか。

少なくとも、「ボクは頭下げない」「ワタシは香を焚かない」――なぜならそれは、偶像礼拝になるから――と言い張っている方が、よっぽど罪深いように思わないのだろうか。

そもそも、「生きている人にも死んだ人にも」という言葉の、「死んだ」とは、「希望もなく、心に力もなく、信仰も失ってしまった」ような状態のことを指しているのであって、その時のナオミの人生の悲惨さを表現して言ったのである。

夫にも息子にも先立たれ、やもめの身となり、飢饉に見舞われ、家も財産もすべて失い、失意のうちに故郷へ帰り――

「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」

というふうに、神へ向かって、呪いのような涙を見せなければならないような苦しみのことを指しているのである。

が、まさにまさしく、そういう人にこそ「慈しみを惜しまない」のが父なる神であり、イエス・キリストなのある。

そういう人に対して、「あなたを見捨てるくらいなら、神に罰せられたい」と共に泣きながら同伴を続けたルツや、「わたしが贖いの責任を果たします」と言って、ルツもナオミも窮地から救ったボアズのような人の行為をこそ、神は喜ばれるのである。

そういう人間こそが、「生きている人」であり、「内から生きた水が川となって流れ出る人」である。

「ボクは頭下げない」「ワタシは香を焚かない」――なぜならそれは偶像礼拝になるから――と言い張っている人の心の方が、はっきり言って、「死んで」いる。

それゆえに、

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」

という言葉もまた、そういう意味である。

すなわち、体以上に心が生きているか、肉以上に霊が生きているかがもっとも重要なのである。

いかにも西洋的な、「肉体の死を迎えるまでにイエスをキリストと告白しなければゲームオーバー」的なおバカな思い込みをしているから、「頭を下げない」「香は焚かない」という優等生を演じたがるのである。

はっきり言っておくが、そんなのは、「証」にさえなり得ない。

「生きている人」とは、「内から生きた水が川となって流れ出る人」とは、「慈しみを惜しまれない神」を信じている人とは、肉体が死んだぐらいで、「ゲームオーバー」だなどとは思わない。

例えそれがルールだったとしても、神に不可能はなく、神に変えられないルールはない。(イエスでさえ、わざわざ、ラザロが死んでから、ラザロの所を訪ねたではないか。)

そして、遺された者が「生きている」限り、(肉体的に)死んだ者もまた、心の中で、記憶の中で、生き続けることができる。

つまり、まだ死んでいない、のである。

少なくとも私は、イエスをキリストと告白することなく生を終えた父のためにも、母のためにも、友のためにも、――仏壇に頭を下げてでも、香を焚いてでも――、「慈しみを惜しまれない神」に向かって、今日も祈っている。




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