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エゼキエルこそ、「希望の民」である



――
その人はわたしに向かって言った。「人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてイスラエルの家に告げなさい。」
――


エゼキエルは、その人生をもって、ユダヤの破滅と捕囚という「神の裁き」を預言した、本物の預言者である。

ぺらぺらの、すかすかの、ぼうよみの「暗唱聖句」や、ゴーマンかつマトハズレかつナンバンセンジかの「神学」や「教義」なんかでもって、伝道した気になっている、「宗教ごっこ」をしたわけではない。

すでに述べて来たとおり、

「裁きの神」ほど恐ろしいものは、この世に存在しない。

神はある時、「ケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいた」エゼキエルの前に、突として、天を開き、現れる。

とてもこの世のものとは思われない、奇妙で、不可思議で、聖なる姿をもって、顕現する。

「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した」と、エゼキエルは書き残している。

エゼキエルは、「自分自身の目をもって、神を仰ぎ見た」のである。それゆえに、預言者となったのである。

どこぞ国の神学校をば卒業し、なにがし先生から按手をば受け、それらしい聖句をば与えられ、それっぽい「召し」をば受けたから――そんなツキナミにしてドーデモイイような経緯を経たからでは、けっしてない。

「裁きの神」とは、この世界でもっとも、恐ろしい存在である。

神の言葉を心に留め、神の声に聞き従おうとする預言者の命を使って、まるで生き恥をさらすような不可解なパフォーマンスを命じ、強制する――こういう恐ろしいことを、平気でやってのけるが、すなわち「神」である。

まつろわぬ民に向かって、

「お前たちの運命は、このようになるのだ…!」という事をば表現し、啓示するために、

ただ、それだけのために、

たとえば、神の言葉を聞き、神の声に聞き従う預言者の妻の命をば、「一撃をもって」、奪い去ってしまうのである。

あまつさえ、

「嘆くな、泣くな、涙を流すな。声をあげずに悲しめ。喪に服すな。…」とまで、命令するのである。

なぜとならば、

この妻を殺された預言者のように、

お前たち、まつろわぬ民は、これから他国によって侵略され、捕囚とされ、愛する者をば殺され、夢も希望も平和も力も幸せも喜びも――そのようにして、なにもかも、失うことになるのだから…

だからといって、「嘆くことも、泣くことも、涙を流すことも、声をあげることも、喪に服することも許されない」ほど、はげしく、はなはだしく、あますところのないような、「神の裁き」を受けることになるのだから…と!

――こんな恐ろしい預言が、ほかにあるだろうか。

――こんな恐ろしい預言を、だれが自分の人生をもって、体現したいだろうか。

――そんな「人でなしの預言」を、預言者に命じ、「血も涙もないように」実行してしまうのが、「裁きの神」である。

――そんな恐ろしい神が、この世界のどこにいるだろうか…!


それゆえに、

「(囚われの民が)聞き従おうが拒もうが、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」

というエゼキエル書の一節を取り上げて、さながら切り花のように掲げてみせながら、「聖書はこう言っている」だなどと、教会の講壇なんぞに立ってお説教を垂れていれば、「エゼキエルごっこ」ができていると大いなるカンチガイができる先生方に、ある意味、尊敬と畏敬の念を禁じ得ない。

さりながら、そんなゴリッパな先生方たるや、いったい何を自分の目をもって見、いったいどんな「預言」をば自分の人生をもって体現して来たというのだろうか。

が、そんな「蛇」や「蝮の子」を相手にしているヒマなど、こちらにはない。

いつもいつでもいつまでも、私が相手にしたい対象があるとすれば、それは「神」だけである。

「裁きの神」であれ、なんであれ、ただ神の御元にしか、「回答」はあり得ないからである。

それゆえに、

本物の預言者たるエゼキエルが、その目をもって仰ぎ見たものは、「人でなし」の神や、「血も涙もない」ような裁きだけではなかった。

「裁きの神」は、エゼキエルに向かって、なんどもなんども、なんどもなんども、「憐れみ」をも、語っている。

言葉として、ビジョンとして、約束として、――くり返しくり返し、くり返しくり返し、「憐れみと慈しみ」をば、語りかけている。

もしもそれが無かったら、「エゼキエル書」には、なんの希望もない。

エゼキエルという生身の人間にも、その苦しみに満ちた人生にも、なんの救いもありはしなかった。

しかししかし、

最後の最後に、

エゼキエルの人生には――おそらくは、他のいかなる預言者が目にしたものよりも――壮大な、鮮麗な、満開の桜のような「未来」が、啓示されるのである。

すべては幻であったが、この現実世界よりも、はるかに真実であり、本物であり、そして、永遠であった。

その時、その幻の中のある人が、エゼキエルに向かって、このように言う。

「人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてのイスラエルの家に告げなさい」

その時、エゼキエルは心に悟った。

――ああ、自分はこのためにこそ、この世に生まれて来て、生かされてきたのだ、と。


エゼキエル書40~48章における、神の神殿の描写こそが、エゼキエルがその人生をかけて追い求めて来た、「神の回答」であった。

私は、そのまるで建築仕様書のようなひとつひとつの説明が、いったい「なにを意味しているのか」など、個人的には、さほど興味がない。

なぜとならば、

それらはすべて、エゼキエルという人間が「自分自身の目で見て、自分自身の耳で聞いて、心に留めた」ことを、決して忘れないようにと、そして、あますところなく後世に伝えるためにと書き残した、「神の栄光」の描写なのだから。

すなわち、あの細やかな描写のひとつひとつが、エゼキエルが「自分の人生をもって出会った」、「憐れみと慈しみの神の顔」なのである。

だからこそ、あれほどまでに細部に渡って、細かく、詳しく、丁寧に、描写したのである。

そしてまた、

それは神が「エゼキエルだけに見せた神の顔」とも、言えるかもしれない。

それゆえに、

この箇所を読み返すたびに、わたしもまた、わたし自身の人生をもって、「エゼキエルの神殿」以上に「自分の神殿」を仰ぎ見たいと希う。

「憐れみと慈しみの神の顔」に出会い、「わたしだけに見せる神の顔」を仰ぎ見たいと、熱望する。

なんどでも、なんどでも、くり返し、くり返し、くり返し…。


なぜとならば、

それこそが、「わたしの神」であり、

それこそが、「わたしの人生」という苦しみと嘆きと呻きに満ち満ちた日々に対する「回答」であり、

それこそが、「わたし」という世界でたった一人だけの人間が、この世に生まれ、今日まで生かされている「理由」に、ほかならないのだから。

すべてを犠牲にしてでも知りたいと願い、探し求めて来た、偶然ではない必然の「真実」が、そこにあるのだから…!

もしも、

もしも、それを見ることをえなかったならば、たとえ世界でもっとも多くの人間に、イエスの福音を述べ伝えるような大伝道師にまでなり得たところで、わたしの人生は、うすっぺらの、すかすかの、へベルの「人生ごっこ」にしかなりえない。

だから、

本物のエゼキエルはまた、幻を見て、ひれ伏した。

ひれ伏したのは、「その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった」から。

その時、エゼキエルの心は、感謝に満たされた――喜びにも、賛美にも満たされ満たされて、すべてを悟った。

これまでの不可解な人生に起こった、すべての筆舌に尽くしがたき痛みも、すべての人でなしのような預言も、すべての血も涙もないような出来事も――そんないっさいが、自分がいま目にしている「神の栄光」へと、自分を導いていたのである。

だから、エゼキエルは、こう書き残している、「わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた。」

この「かの人」こそが、イエスその人である。

「傍らに立っていた」人こそが、インマヌエルの神、イエス・キリストである。

エゼキエルは、自分の人生をもってイエス・キリストに出会ったからこそ、「希望の預言者」なのである。

「わたし」という一人の、あまりにもちっぽけで、取るに足らないような人生の中でも、苦しみもだえ、のたうちまわりながらも、

イエス・キリストと出会い、

「わたしにしか見せないイエスの顔」を仰ぎ見て、

なおかつ、「イエスとふたりだけで見つめた神の神殿の光景」を自分の目で見、自分の耳で聞き、すべてのことを心に留めたからこそ、

エゼキエルは、「希望の民」なのである。


それゆえに、

エゼキエルの預言書の最後の一文も、なんとも、まあ、希望に満ちあふれている。

「この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。」




追記:

私は、『エゼキエルこそ、囚われの民である』と『エゼキエルこそ、希望の民である』という二つの文章を、2022年の秋に書いた。

そして、その時これら二つの文章に込めた思い――すなわち、「わたしだけに見せるイエス・キリストの顔が見たい」という、この切羽つまったような希求に対して、わたしの神、イエス・キリストははっきりとした回答を与えてくれた。

それが端的に表現されている文章が、たとえば『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』や、『父よ、我が霊を御手に…』や、『わたしは主である』や、『ソドムとゴモラ』や、『憐れみの器』といったような文章である。

私は、これらの文章を書きながら、一歩一歩、「イエス・キリストの山」に登り、その頂で、わたしの最愛の伴侶、イエスが笑うのをこの目で仰ぎ見て、心に留めた。

それは、「イエスがわたしだけに見せた永遠の微笑」であり、また、イエスとわたしの父なる神の「憐れみと慈しみの顔」でもあったからだ。

それゆえに、今日、

「エゼキエルとは、囚われの民であり、それ以上に、希望の民である」という真実を、

「わたし」という世界でたった一人だけの人間が、この世に生まれ、今日まで生かされている「理由」を、

私は、苦しみと嘆きと呻き以上の、希望と感謝と喜びに満ちた「わたしの人生」をもって、あらためて確認し、信仰を強めたのものである。

令和五年六月二十三日 
無名の小説家

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