赤ペン先生は

順番。男(女)だ。この人はいい人だ、好きだなあ。
この人はいい人だ、好きだなあ。男(女)だ。
これだけで価値観や自分にとっての愛に対するベクトルは違う。どっちもある。正しいも間違いもなく。ただそこに存在する。誰かが否定することはできない。答えこそないから。

上記の例なら、赤ペンをつけるのは恋をした人だけでいいこと。同じ解答用紙に赤ペン先生は何人も要らない。
否定も肯定も誰かにとっては苦しいものになりうるしまた誰かにとっては幸せなものにもなる。だから否定すること肯定することに重きを置くんじゃなくて、ただおめでとうと言うだけでいい。言わなくても。
現代は多様性という言葉に囚われている気がする。言わなきゃ殺されるみたい。多様性が理解できない人をマイノリティ化しようとする。それは意見の強制であって理解ではない。食べ物に好き嫌いがあるように、理解出来る事実、できない事実は人それぞれである。だから肯定、否定という行動がそもそも烏滸がましくまた甚だしい。

多様性という言葉が生まれる時点で悲しいのは現在を生きてる私たちである。

それでも理解できない側が理解出来ている人間に意味がわからないと押さえつけることも、その逆も無意味で無価値、何も生まない。だから私たちは私たちで等身大に生きるしかない。愛って合理的でないから色んな形が生まれる。合理化しようとすればするほど言葉に囚われて身動きが取れない美しいようで醜いもの。時として賞賛を浴び、時として自ら堕ちる。そんな概念的なものに意味を見出そうとする人間は汚い美しさを持ってて好きだ。私の愛は今はまだこれだけ。いつか焦点になるような人が現れても現れなくても、私の答案用紙には誰も赤ペンをつけることは無いだろう。

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