SFプロトタイピング:メモリー・コンポーザー
アルカは今日も早朝から〈記憶の庭〉に足を運んだ。彼女の職業はメモリー・コンポーザー(記憶の調律師)。人々の記憶をデザインし、過去と未来を繋ぐ仕事だ。透明なドーム型の施設は、空中に浮かぶ都市レルム・ノヴァの中心部に位置し、周囲にはホログラムの植物が風に揺れている。このメタバースが彼女の働く場所だ。
彼女は手首に装着したバイオ・シンフォニーデバイスに触れ、意識をリンクさせる。瞬間、視界がデジタルの万華鏡のように変化し、無数の記憶の断片が彼女の周りを舞う。
「今日のクライアントは、火星からの移住者ね」
アルカはデバイスから送られてきたプロフィールを確認する。名前はリオ、年齢は35歳。火星特有の低重力環境で育った彼は、地球への適応に苦労しているという。
「彼の記憶に、新しい風を吹き込まなきゃ」
彼女はデータ空間に入り込み、リオの記憶の流れを辿る。そこには赤い大地と薄い空気、そして独特の文化が広がっていた。彼の心の奥底には、火星への郷愁と地球への不安。
アルカは自身の感性と最新のアルゴリズムを駆使し、新たな記憶のシークエンスを構築していく。彼が地球の自然と触れ合い、安心感を得られるような体験を創り出すのだ。
「これで、少しは心が軽くなるはず」
作業を終えた彼女は、デバイスを解除し深呼吸をした。窓の外を見ると、巨大な空中庭園が広がっている。そこでは宇宙空間に適した植物が育てられていた。
「アルカ、少し休憩しないか?」
同僚のエイデンが声をかけてきた。彼はシンギュラリティ・ガイドとして、人間とAIの共生をサポートする専門家だ。
「いいわね。最近、ずっとアンリアルで作業しっぱなしだったから」
二人はエーテル・カフェへ向かった。そこでは物理的な飲食物ではなく、神経刺激による味覚体験が提供される。
「新作の『星屑ラテ』がおすすめだよ」
エイデンの勧めで、それを注文する。脳内に広がる微細な味覚と香りが、まるで宇宙を旅しているかのような感覚をもたらす。まあ実際に宇宙にはいるのだけど、気軽に星間旅行できるほど人類の科学は進んでいない。
「ところで、最近どう? メモリー・コンポーザーの仕事も大変だろう」
「ええ、でもやりがいはあるわ。人々の心に直接触れることができるから。でも、時々思うの。私たちは本当に人々のためになっているのかって」アルカはカップを置き、小さく笑った。
「僕も同じことを考えるよ。テクノロジーが進みすぎて、人間らしさを見失っているんじゃないかって」エイデンは真剣な表情で頷いた。
周囲を見渡すと、人々は皆、ホログラムや拡張現実のデバイスを通じて何かと接続している。直接的なコミュニケーションは減り、感情もデータとして処理される時代。
「そういえば、新しいレルムができたって聞いた?」エイデンの問いに、アルカは首を傾げた。
「いいえ、どんなところなの?」
「『オリジン・レルム』って言ってね。テクノロジーを極力排した、昔ながらの生活を体験できる場所らしい」
「それって面白そうね。実際に行ってみたいわ」
「今度、一緒に行ってみる?」
「ええ、ぜひ」
その夜、彼女は自宅のバイオ・ルームで休息を取ることにした。部屋全体が彼女の生体リズムに合わせて環境を調整し、最適な睡眠をサポートする。目を閉じると、頭の中に一つの映像が浮かんだ。それは、彼女がまだ子供の頃、地上で見た本物の星空。今は気候変動で見ることができなくなった貴重な記憶だ。
「本当に大切なものって、何だろう」
彼女は自問自答する。高度に発達したテクノロジーと便利な生活。しかし、その中で失われていく何か。答えが出る前に意識が途切れた。
***
翌日、アルカはエイデンと共に「オリジン・レルム」へと向かった。そこではデバイスの使用が制限され、人々は直接言葉を交わし、自然と触れ合っていた。
「ここでは、記憶の調律も必要なさそうね」アルカは深呼吸をし、風の匂いを感じた。
「本当に大切なものは、意外とシンプルなのかもしれない」エイデンは彼女の横顔を見つめ、静かに頷いた。
「私たちが忘れていたものを、取り戻せるといいね」
その日、彼女は初めて仕事から離れ、自分自身の心の声に耳を傾けた。未来の世界で生きる彼女たちが見つけたのは、過去からの小さな囁きだった。
あとがき:
時代が変われば新しい職業ができます。そしてその職業が解決しようとしている問題は、あるいは過去にはそもそも存在しなかった問題であることもあるでしょう。以前には問題にならなかったことが問題になる、進化とはそういうものなのかもしれません。
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