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《散文》共土シリーズ4「チェスキー・クルムロフ」

 見慣れないアカウント名からLINEがきた。そこには久しぶりに連絡をする挨拶と、その人が住んでいるところのお米がおいしいからいずれ是非きてください歓迎します、という言葉、そして近況を伺う文言が並んでいる。そのあとにかわいらしい花のスタンプが、手紙に封をするように送られていた。
 二年前になるだろうか。一度ドイツやオーストリアのあたりを周遊した際に、ウィーンから移動車に相乗りして訪れたのがチェコのチェスキー・クルムロフだった。町全体はそこまで広くないのだけれど、熟れすぎたオレンジのような色の屋根と白い建物、町の周囲を彩る森の緑が美しい景観を作り出していて、町そのものが世界遺産に認定されている。以前からテレビや雑誌でよく見かける風景が目の前に広がっていて、しばらくは現実と思えないほどだった。相乗りしていた二人連れと少し旅の感想を報告し合い、お互いここでも素敵な時間を、と手を振り合った。宿泊先に荷物を預け、早速町に繰り出す。橙色の景色を見渡せる、少し高台になっている場所に観光客が集まっていた。様々な人種が当然のように行きかい、当然のようにそこにいる。そういうところにはずっといたくなるし、ずっと求め続けている場所のように思う。一つのくくりのなかでこうだと(自分が自分に)決められることもなく、自分の存在に付与される意味合いが広がることで、あまり気にならなくなるからかもしれない。サングラスをかけた観光客たちに混ざって散策する。ただそれだけの事実があることが嬉しかった。
 高台から全体を写真におさめる。中央にある城はこの町の象徴的な建築物で、13世紀後半からこの町とともに時代を見つめ続けていて、豊かな歴史を今でも作り続けている。想像の及ばないほどの時の流れがここには満ちていて、今そこに組み込まれている自分を意識すると不思議な気持ちになった。
 城の敷地内に入ると、そびえるシルエットを見上げる人もいれば、なぜか城のふもとで下を覗く人もいる。肩くらいまである石の柵から見下ろすと、三メートルほど低くなったところに何か黒い物体が動いているのがみえた。大木の一部が転がっていて、その蔭からなかなか出てこない。木がすこし動く。一向に姿を現わさないのでまず城のなかへ入ってみることにした。
 城のなかにあるだまし絵は有名で、これも何百年もの年月を経た芸術作品だ。どこかにだまし絵がないか探しているときに、声をかけてくれたのがTさんだった。よく一人旅をしているらしく、知らない人に声をかけるふるまいは慣れたものだった。Tさんは物腰柔らかで笑顔が素敵な人だった。城のなかを巡るツアーに一緒に参加して、お互い聞き取れなかったところを補い合った。そのあと、せっかくなので町を見渡せるカフェテラスで、名物といわれているビールで乾杯した。飲み干すまで互いの旅の思い出を語り合い、さいごはLINEの交換をして別れた。SNSの普及した今だからこそ、今回のような関係性は真新しく色濃く記憶に残っている。テラスに青色の花が揺れていたことや、町を見下ろすときに触れた白い石の手触りさえも昨日のことのように思い出すことができる。それじゃあ良い旅を、と会釈して去っていくTさんのトレンチコートの背中も、後ろに一つ結びにした黒い髪のことも。
 城から出るとやはりまだ人だかりができていて、城のふもとを覗き込んでいる。その姿をどうしてもみたかったので、木の裏から出てくるのをしばらく待っていると、どこからともなく「シオン!」と子どもの叫ぶ声が聞こえた。黒い大きな塊がもふりと現れた。聞こえた言葉は熊のことを中国語で言ったものだ。私たちのいるところまではかなりの距離があるし、ちゃんと網も張り巡らされているので万が一のときも安全になっている。一頭だけではなく三頭いるらしい。昔、チェスキー・クルムロフの王様が森へ鹿狩りに出かけたとき熊に襲われそうになってなんとか城まで逃げ帰った。しかし、その熊は王様を追いかけてきて、あとすこしで王をとらえられるところで跳ね橋をあげられたため、城の堀へ落ちてしまった。それ以来、約400年間、熊はその堀で子どもを産み育てている‥‥、というおとぎ話があるのだった。城お抱えの番人、というよりも今ではもはやご当地キャラクターのようなものだろうか。観光にくる子どもたちに人気なのは間違いないようだった。
 Tさんから連絡がくるといつもこの熊のことを思い出す。おとぎ話のことは知っているんだろうか。スマートフォンを手にして、Tさんへの返事をしたためる。お久しぶりです、こちらも元気にやっています。前に訪れたチェスキー・クルムロフでの熊の逸話って知っていますか。どこまでが事実かはもうわからないですけれどこんな話があって‥‥‥。では、今度そちらへ伺う際には連絡します。それまでお元気にお過ごしください。
 あの日、乾杯をしたテラスに咲いていた青い花。それに似たスタンプがあったので選んで【送信】ボタンを押した。

古屋朋