見出し画像

「20代で得た知見」を読んだ

息つく暇もなく無限回廊に面白く、始めから終わりまで読むことが「体験」と言える本がある。私にとってのそれはハリーポッターシリーズ(の特にアズカバンの囚人と謎のプリンス)であり、舞城王太郎「煙か土か食い物」であり、レベッカ・ブラウン「体の贈り物」である。

そして一方には、9割が毒にも薬にもならず、ともすれば合わない感性や理解できない描写やずれた「てにをは」に振り回され、集中力を削られながらもとりあえず「読み進めなければ」と思って読み進める本もある。
人生は短い。冴えた脳もまた有限である。無意味なものをインストールする時間はない。

そう思っていながらもとりあえず読んでいく。動機は大体「内容はしょうもないが文体は好き」「内容も文体もしょうもないが粗筋は良い」「内容も文体も粗筋もしょうもないが作者の前作は良かった」のどれかにおさまる。型は違ってもつまりは惰性である。

ほとんどイライラしながら活字の山と格闘している一閃、ある1頁のさらに数行に目が吸い寄せられる。

相手を黙らせ、形成を逆転し、聴衆を味方につけ、脳を屈服させる一小節を「パンチライン」と言うことがあるが、まさにそれを本の中に見つけることがある。

「20代で得た知見」はまさしく自分にとっては後者の本だった。

料理ができるって、人を幸福で殴り倒せるということです。

この一文、30文字に満たない一文があまりにも輝いて見え、結果的に読後感すら美化させてしまった。それはもう、正統派ともいうべき前者の面白い本たちが並ぶ、身長1.6メートルの私が手を伸ばした時にちょうど触れる本棚のうちの特等席に疑いなく収めたほどに。

なぜこの一文に惹かれたかは割愛するが、「どこをとっても面白い」本にはない、自分にとり無駄と思えさえする雑多な文章にはさまれることで輝いて見える「この一文」を見つけたときの感覚も、「関心の暴力」「読み切るまで寝られない」本にはない良さかもしれないと思った。

いや、やっぱりそんな博打はやってられないかもしれない。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?