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生きてればいつかいいことある、死なないで。

その言葉が大嫌いだ。





前世でどんな悪いことをしてしまったのか分からないが、ぼくは”玄関を開けたらいる人たち“の家庭に産まれた。いわゆる“宗教2世”だ。

日本ではまだあまりこの問題が有名ではないので、少し説明させてもらう。

親がなにかの宗教を熱心に信仰している家庭に生まれ、親が持つその信仰を受け入れることを強制された子供たちのことを“宗教2世”という。これを聞くと“自分も小さい時から初詣に行ったり仏壇に手を合わせたりしている、そんなのほぼ全員に当てはまるんじゃないか”と思うかもしれない。だが、2世問題はもっと深刻なのだ。

宗教にもよるかもしれないが、ある宗教の元に生まれた子供たちは自由な進学、就職、恋愛を禁止され小さい時から宗教活動(布教等)に強制的に参加させられる。そして信者となることを強制される。もしそれに反抗するなら親や他の信者から体罰や精神的虐待を受け是が非でも信者となる様圧力を受ける。それでも、もしその宗教を受け入れないなら、家族や他の信者から縁を切られ、子供たちは生きていくために必要なコミュニティから追い出され1人で生きていかなければならない。


”自由を奪われた“子供たちなのだ。


自分はそんな環境に生まれた。
自己表現がうまくできずNoと言えない僕は小学生の時、生きていく為にその環境の全てを受け入れた。子供ながらに、部活、進学、将来本当にやりたかったことなどを諦めた。平日は学校に行き、休日は親の宗教活動に付き合った。周りの子達が友達と遊んでいる中自分は集会や布教。布教先の家の人からは冷たくあしらわれ、集会では退屈な話を無理矢理聞かされ。こんなことやりたくないと言うと親から叩かれる。自分の気持ちを我慢して活動すると褒められる。そんな毎日を繰り返していると自然と自尊心が失われ、代わりに劣等感が芽生えた。さらに不幸なことに、同じ宗教の人たちの言葉を借りると自分はその宗教でのいわゆる、エリートコースというレールに乗せられてしまっていた。気づけば僕は、自分を殺し、親の顔色を伺い、愛想笑いと空気を読むことを覚え、周りの大人たちが求める人物像を演じ、操縦不能のトロッコに乗せられ周りの敷いたレールを全速力で突っ走っていた。

閉じられた幸せな未来、押し付けられる期待。


未だに思春期を迎えていない児童が

現実を受け入れるには、

自分を殺すには、

人生を諦めるには、

あまりにも早すぎた。






親も周りの大人たちもみんな、自分のことを“将来この組織を担う為の駒”としか考えていない、本当の自分なんか誰も求めちゃなんかいない。自分は必要ない。

思春期の僕はいつからか自然とそう考えていた。


苦しかった。
誰かに助けて欲しかった。自分の生まれた環境について友達に相談したかった。
そんな思いを持ち始めたある日Twitterを見ていると、友達がRTしたとある動画が目に飛び込んできた。

『宗教勧誘撃退してやったwwwww』

僕は胸騒ぎを覚えながら再生ボタンを押した。


その動画では、自分の属する宗教の活動が晒されネットのおもちゃにされていた。


それを信仰する家庭に生まれ周りからの圧力を受け、生きていくためにどうしようもなく受け入れた宗教が世間ではネットのおもちゃにされ邪険に扱われている。

そして友達は“世間“に賛同している。





その事実に僕は絶望した。


宗教を退けるなら親の立場が失われ信者から拒絶され
受け入れれば世間から拒絶される。



自分ってなんで産まれたんだろう。



生まれなければよかった。



自然とそう思うようになった。



自分の生きている世界が、地獄でしかなかった。




この出来事がきっかけで、僕は自分の生まれた環境をひた隠しにすることに努めた。
本当は宗教が原因でできなかったことを、友達の前では自分のせいにした。
「部活なんてダリーから帰宅部」「校歌?めんどくせ~歌わねーわ笑」「就活?進学?学校推薦?めんどwwww自分で探すわwww」
と笑った。

どんどんと自分で自分の首を絞め始めていった。
自然と、同じ宗教の人たちだけでなく、友達の顔色も伺う様になった。誰と接する時でも常に”自分が〇〇の信者“ということに罪悪感を感じた。誰にも本音を言えなくなった。卑屈になった。自分を卑下するのが癖になった。

そんな僕を、周りは“病みすぎww”と笑った。気づけばほとんどの友達が消えた。暗くなった僕を、本来味方になってくれるはずの信者たちも遠ざけ始めた。友達も恋人もいない、大切にしてくれるはずの親からも愛されない、気づけば孤独だった。




そんな僕に親友ができた。彼はいつも側にいてくれた。彼はいくつもの孤独な夜に“死にたい”という感情を添えてくれた。姿の見えない彼は、僕のメンタルをどん底まで突き落としてくれた。





人生は地獄でしかなかった。


そんな時彼が与えてくれた希死念慮は救いだった。



死ぬことで全てから解放されるという事実。


死は救済でしかなかった。






いつからか、死にたいとしか思わなくなった。






そんな僕を見てある人たちはこう言葉をかけた。


生きてればいつかいいことある、死なないで。


その言葉が大嫌いだ。



結局、その言葉で救われるのはそれを投げかけた自分ではないのか。苦しんでいる人に優しく投げかけた自分の言葉に自惚れているだけではないのか。

自分が消えたところでその人たちにはなんの損もない。大勢いる幹部候補、友達、知り合いの中の、たいして大切でもなかった1人が消えるだけだ。

実際、ぼくにその言葉をかけてきた人たちは皆そうだった。
みんな大切な人がいて、話し相手も遊ぶ相手もたくさんいて、自分が消えたとて、自分よりも明るくて面白い有能な代わりがいくらでもいるから誰も困らない。



“死にたい”


なにも心配されたくて言っているわけではない。

“死にたい”は自我を殺して生きてきた自分にとっての唯一の本心、心からの叫びだった。

でも彼らは

僕の心の叫びに口を揃えて“死ぬな”と答えるが“生きたい”とは思わせてくれなかった。

必要としてくれなかった。

優しく聞こえる真っ当な言葉をかけるが、行動を起こすことをしない。助けてくれない。そんなのただの自慰行為ではないか。苦しんでいる人に、まるで虚像の様な希望の手を差し伸べ、掴んだと思ったらそれは泡沫の様に消えてしまう。何故そんな酷いことができるのか。


無責任な“死ぬな”はこの世界のどんな中傷の言葉よりも
酷いものだと思う。

死ぬな

と言うなら、そう願っている誰かの今後の人生を支えるほどの責任感を持って欲しい。常に寄り添って愛してあげてほしい。


それができないなら、軽率に“死ぬな、生きろ”と言わないで欲しい。


死にたいと本気で苦しむ人に“死ぬな”と言う前にこのことを考えてほしい。






姿の見えない彼に背中を押された僕は、チャンスが訪れたら行動に移そうと決意している。



奇跡は死んでいる。


もしその時が来たらぼくは、道端を歩いている小さな蟻が踏まれて死んでも誰にも気付かれない様に、ひっそりと消えると思う。


勘違いしてほしくないのだが、自分がこの選択をしたいと思うようになったのは宗教や周りの人間のせいではない。


言ってしまえば、結局は自分のせいなのだ。


生まれた環境を素直に受け入れられず、自分で自分の首を絞め、周りから好かれず、誰からも大切な存在とみなされなかった自分が悪い。

もしかすると、これまでに誰かが実際に助けを差し伸べてくれていたのかもしれない。でもそれに気づけなかった自分が悪い。






ただそれだけのことだ、








p.s.
こんなことを残したが、ぼくは生来勇気のない人間だ。

もしかしたらいつまでも勇気が出ず、あるはずもない0.1㍉の可能性を信じて、閉ざした筈の明るい未来を夢見て、のうのうと生きているかもしれない。


その時は、お前バカだなと笑って欲しい。

その時は一緒にご飯にでも行って、帰りに海でも見よう





この話は

多分フィクションです、多分。


20210813




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