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風の街

ほんのり木の香りが残る机に、縁の欠けたマグカップが置かれている。
溢れそうなほどに水がたたえられており、表面張力が緊張を醸し出している。
空になったペットボトルは机の脇に転がっており、窓から差し込む光を漠然と屈折させている。

ブランケットが無造作に掛けられた二人掛けのソファに触れる。
昨日、ここに彼女がいた。

今日はやけに肌寒い。彼はブランケットを羽織り、電気ケトルに水を注いだ。


ほんのり木の香りが残る机に、縁の欠けたマグカップが置かれている。
コーヒーが僅かに残っており、縁には口をつけた跡がある。
ごみ箱に破られたスティックコーヒーの袋は暖房の風に揺れている。

仄かに明るくなった部屋に書き置きが一枚置かれている。
彼はコーヒーを飲み干し、シンクに置いた。

今日だけは風が吹きませんように、と彼は祈った。


この街には風があった。
時に木の葉を踊らせ、時に洗濯物を乾かし、時に花の香りを運ぶ。
街の北側を覆う山には赤、青、黄色の風車が建っていて、楽しそうに羽を回している。
街行く人々は風に乗り、身を任せて走る。
そのなかで一人、ホームレスが小汚い毛布に包まってベンチで寝ていた。

彼は窓越しにそれを見ていた。木はその場で踊り、人や鳥、木の葉は軽やかに通り過ぎて行く。
「後ろこんな感じですがいかがでしょうか」
ぼんやりと鏡のなかの襟足を見て大丈夫だと言うと、笑顔で固まった美容師は回転椅子を回した。


あの夜、彼女の傾いた肩は風のせいだった。

彼女は春の長手だった。
街の誰よりも上手く風に乗り、時には自在に操った。子どもを慈しみ、鳥に微笑み、周囲の人々に笑顔を与えた。そのあとにはいつも彼を見た。

ある日、彼は彼女と街で待ち合わせた。
昨夜から雨が降っていた。どんよりとした重い空に仄暗い街を鳴らす雨は風によって傾いていた。
雨や車の音が聴覚を埋め尽くす。彼は顔を顰めながら玄関の扉を開いた。
風は幾度も方向を変えながら吹き荒ぶ。雨と一緒に近所の子どもの兄妹が踊っている。電話をしながら笑顔を浮かべたサラリーマンがその横を通り抜けるとまた風向きが変わり、向かい風になった。
彼は傘を少し前に傾け、身を屈めながら歩いた。

駅前の時計台に辿り着くと、彼女はそこにいた。
静かな佇まいで、しかしいつものように風を纏っていた。
彼と彼女のあいだに風は渦を巻く。どこからか流れてきた桜の花びらが通り過ぎていく。
彼女は彼に気づくと、文庫本をしまって柔らかく微笑んだ。
すると晴れ間が現れた。陽射しに透く雨は輝いた。
彼は亡き王女のためのパヴァーヌを思い出した。

その日は彼女と映画を観た。
やけに眩しい映画だった。白を基調とした画面が長く続き、暗いはずの映画館を照らし続けていた。彼はふと彼女を見た。長い睫毛がその目に影を落としていた。
退屈な映画だがまた観に来れたらいいなと思い、彼は目を閉じた。



ここで転調するんだ、と彼は言った。
AメロともBメロとも付かないところで息を潜めるように転調し、キーが上がった。
安定してるような、不安定なようなメロディが妖しく鳴り響いている。



坂を登りきると、右手にアーチの窓が特徴の小屋が見える。その小屋の裏は開けており、原色の風車が三つあった。そこでは街が一望できた。駅前には少し背の高い時計台があり、そこは風が溜まる場所だった。
ここはこの街で一番空に近い。
鳥のはばたきも、空高くを駆ける白い雲の鼻歌もここでは聴こえた。

この街には風があった。
時に花を踊らせ、時に朝露を乾かし、時に金木犀の香りを運ぶ。
街では風が走り、踊り、横糸を紡ぐ。
街行く人々は風を撫で、跨るようにして走る。
部屋の窓を開けると風が流れ込んだ。


あの朝、彼の閉ざした口は風のせいだった。

彼は秋の短手だった。
彼はこの街の特異点であり、街の光が、冷たさが、香りが、振動が彼を避けて通った。彼は風に揺れず、周囲の木陰だけが揺れていた。その目はいつも据わっていた。
彼はしばしば難解なフレーズを弾いていた。滑らかに走る両手を見て、目紛しく回るメロディを聴いて、その長い前髪を見ると、彼女はいつも北の山に登った。
原色の風車が回る下で、彼女は目を閉じ、風を巻き、頭を空っぽにして踊った。

ある日、山の麓で待ち合わせた。
昨夜から気温がぐっと落ちた。からっと晴れた空は街に滑らかな風を流し、並木の枝葉を傾けていた。
今日は風の唄が溢れている。彼女の顔は綻び、空を見上げて走り出した。
風が絶えず吹き遊び、街が踊る。冷たさを、匂いを、擦れ、ぶつかる音をあらゆる場所へ届けた。
彼女はそれに合わせて口遊み、ステップを踏んだ。

山の麓に辿り着くと、彼はそこにいた。
能面のような面持ちで、そこには街とは別の時間が流れていた。
彼と彼女のあいだを風が洗い流すと、束の間の静寂が現れた。
彼は彼に気づくと、イヤホンを外して静かに彼女を見つめた。
不意に雲が太陽を覆い、街に影が落ちた。
彼女は4分33秒を思い出した。 

風車が回っていた。
夕焼けに赤と黄色の風車が息を潜めていた。青い風車の下で二人は街を見下ろした。
やけに眩しい夕焼けだった。空がグラデーションをつくり、街の人々は立ち止まってそれを眺めている。
彼女はふと彼を見た。沈みかけた太陽が執拗なまでに彼の顔を照らしていた。彼もまた、眩しそうに目を細めて彼女を見つめていた。

二人は暫し見つめ合った。


彼はこの街を離れると言い、徐ろに目を閉じた。
夜の帳が下り街が静まった。そして風が止まった。

もうすぐ雪がこの街を覆うだろう。
きっとこの街はいつか崩れ落ちる。そんな予感がした。
風の街へと彼は消えた。

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