集団自決させられようとしているのは誰か?

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突然ですが、問題。
問題「3人で2つのりんごを平等に分けたい。ナイフを使う回数をできるだけ少なくして分けるにはどうすればいいか」

少し自分の頭で考えてから、答えを見てほしい。

答「ナイフを1回使って1人を刺し殺せば、残った2人でりんごを1つずつ平等に分けられる」

という有名な頭の体操的な問題がある。
ちょっとした雑談などをしている場で面白いクイズとして出題する分には楽しいが、実際にりんごを3人で分けるときに、これを本気で主張する人がいたとしたら、その主張に首をひねらないだろうか?
ところが、この答えを知識人として多くの人がいる場で主張している人がいるという。
それは経済学者の成田悠輔氏である。

最近ネット上で成田悠輔氏の「集団自決発言」が話題になっている。
「高齢者は老害になる前に、自ら集団自決をするべきだ」
この発言が注目されたのはABEMAの番組上だが、同様の発言を成田氏は様々な場所で繰り返しているようだ。
そして発言の意図としては「世代交代を促すメタファー」であると説明している。

僕はこの発言に対して「いかにも上級国民って感じの言葉選びだなぁ」と思っている。
まず、集団自決発言に対して「人が自殺するような社会にしたいのか!」とか「今まで日本を作り上げた先人に死ねとは何事だ!」などの批判が飛ぶが、こうした批判はどこかピントがずれているように思う。
過去に「「どうして人を殺してはいけないのか」と問うた高校生や、「意思疎通ができない障害者は社会に迷惑をかけるだけなので殺害してもいい」と考え犯行に及んだ植松死刑囚、そして「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!」というタイトルでブログを書いて批判された長谷川豊氏など、さまざまな理由で「人を殺すこと」を肯定的に論じてしまい、もしくは肯定的に論じたと判断されて、社会から極めて強く非難された人がいる。
だが、彼らと成田氏の主張は異なっている。
成田氏は「人を殺すこと」を肯定的に論じるのでは無く、あくまでも「死を余儀なくされる状況に追い込まれることを否定しない」という範囲の主張に留まっている。
つまり主張の上では人を殺すことを決して肯定していないのである。
成田氏の主張はどちらかと言えば「尊厳死」の議論に近く、高齢者がその主体性を持って死を選択し、若者に道を譲ることこそが真っ当な人の生き方であると説いているのである。

だが、存在するように見える「主体性」は、実は存在していないのではないかという疑問が残る。
成田氏はこの「老害になる前や自決をするべきだ」という趣旨の発言を様々な場で行っているが、「自決」というのは「誰かに死を強制される、もしくは死を選ぶことを余儀なくされる」ことを指す言葉である。
特に「集団自決」は「生き恥を晒すべからず!」という帝国主義による末端の軍人や国民に対する洗脳が前提として存在しており、「自決」という言葉に含まれる死は、最終的に自らの決断で行われる「自殺」による死と同じではない。
にも関わらず「自決」という文字からは、さも「自ら決断した」かのようなイメージが付与されてしまう。
昨今の尊厳死議論における「それは本当に個人の尊厳を守るための死という選択なのか。単純に医療費増大や家庭の負担を防ぐ観点から、弱い立場の人が死を選ばざるを得ない状況に落とし込まれており、その状況を「個人の尊厳である」と強引に美化しているだけでは無いのか?」という問題意識は弱まり、ただ一方的に「今後の若者のために老人が身を退くことは正しく、その決断は素晴らしい」というプロパガンダ的な圧が感じられる。
そうした「圧」と、成田氏の「イエール大のアシスタントプロフェッサー」という立派な肩書きが、「集団自決」という、普通の人が言えば首をひねるしかない意見を、まるで「客観的視座をもった冷静な意見」のように錯覚させているのである。

そして僕が最も需要だと思っているのは、成田氏が同様の発言を社会保障を議題とする場で主張していることである。
2019年に開催された「G1サミット2019」というイベントの中で行われた「安倍政権の残された聖域~社会保障制度改革は進むのか~」と題されたイベントでも、成田氏は同様の発言をしている。
しかし「社会保障」という具体的なテーマから述べられると、この発言のグロテスクさが際だって見える。
社会保障と高齢者という観点で見れば、問題になっているのはやはり「少子高齢化」だ。

2022年の日本の出生数は79万9728人と80万人を切り、過去最低の数値となった。
将来の現役世代の数が増えなければ社会保障にかかる1人当たりの負担が増えることから、国は少子高齢化を是正しようと様々な策を練ってはいるが、いずれも焼け石に水の感が強く、今後も子供が増える見込みは立っていない。
これに対して成田氏は「高齢者が集団自決をすればいい」という提案を披露するのである。
これも成田氏の中では「世代交代を促すメタファー」として発言されている。
しかし、増え続ける高齢者と、減り続ける新生児という前提条件を踏まえた上でこの言葉を解釈すれば「子供が増えないなら高齢者に死んでもらえばいいじゃない」という、マリー・アントワネット構文のような実にシンプルな解決法が、それを聞いている聴衆の頭の中に浮かび上がるのである。
成田氏は続けて「ここにいる皆さんのようなリーダーの方が次々と切腹をするような日本社会になったら、ただの社会保障政策ではなく、最高のクールジャパン政策になる」と冗談めかして発言しており、ここでも成田氏は「あくまでもメタファー」の姿勢を崩していない。
成田氏の主張を受け入れる過程で、そこに「高齢者を殺すことの肯定」という最後の仕上げをしているのは、実は我々自身なのである。
成田氏に対する批判の声も、そして成田氏に対する賛同の声も、成田氏の実際の主張からはズレている。だがそれでいて、成田氏の主張には明確に「ニーズ」が存在するのである。

これから最後の人口ボリューム層である「団塊ジュニア世代」が高齢者となる。
少子高齢化問題はこれからも問題であり続けるだろうが、団塊ジュニア世代が高齢者になる頃が一番キツい胸突き八丁であり、彼らが死ねばとりあえずの山は越える。
厚生労働省も2040年頃が社会保障にとって一番の山場であると把握しており、対策が急がれている。
ならば、この団塊ジュニア層に「消えて」もらえば、問題の多くは解決してしまうのである。

問題となったABEMAの動画のタイトルには「成田悠輔「消えるべき人に消えてと言える状況を」」という言葉が含まれている。
繰り返すが、ここでも成田氏は「あくまでもメタファー」の姿勢を崩していない。
しかし、ここで想起される「消えるべき人」は、決して権力の場に居座り続ける高齢者ではなく、社会にとって必要とされない老人、すなわち貧乏な高齢者であると聞いている側は解釈してしまう。

成田氏を起用する側というのは、やはりある程度のお金を持っていて、将来にわたって自分が社会保障の傘に助けてもらう可能性は露ほども感じていない人たちである。
彼らにとって社会保障問題は自分の生活には無意味であるどころか、自分たちの納めた税金を他人に使われるという被害者意識しかない問題である。
そうした問題を解決するためには「貧乏な高齢者に死んでもらう」のが一番である。
だが、それを表だって主張するのは角が立つ。それこそ先に述べた高校生や植松死刑囚や長谷川氏のように世間の反発をモロに受けてしまう。そこで成田氏に結論の直前までを代弁してもらい、最後には「貧乏な高齢者は死ぬべきだ」という結論を聴衆自ら出してくれることを期待しているのである。
そしてそうした空気を政治家が読み、社会保障の削減や、尊厳死の法制化などを整備していく。
成田氏は政権与党である自民党の政治家にもかなり気に入られているようだが、政権与党の狙いが団塊ジュニアを狙い撃ちにした少子高齢化問題の解決にあると考えるのは、決して邪推とは言えないであろう。

僕はそれに抵抗したい。
なぜなら僕は殺される側の「貧乏な高齢者」になるだろうと考えるからだ。
そして何より人に死んでもらっても良いという空気を醸成することは、民主主義の否定であるからだ。
そのために成田氏を批判するのではなく、成田氏を起用し、そのような結論に導こうとする起用側を真っ正面から批判しなければならない。僕はそう考えている。

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