なぜ「キモくてカネのないおっさん」は悪手なのか(もしくは弱者の語り方について)
「キモくてカネのないおっさん」(以下KKO)というネット上の言葉がある。
僕が記憶しているに、最初はこの言葉は「不幸に巻き込まれた可愛らしい女の子などが、同情を集め、結果として救済の対象になりやすい一方で、KKOはいかに救済の対応になりうるのか」という話であったはずだ。
それこそ、電通の長時間残業が女性社員が死んで初めて問題になった一方で、その前に過労死していた男性のことに対しては、国民も政府もなんら対策を講じなかった。
そうしたことから、女性や子供、お年寄りと言った我々が「かわいそう」と見なす人たちの不幸には同情が集まりやすく、一方で「男性で中年」にはほとんど同情が集まらない。それがやがてKKOの形になった。そう記憶している。
しかし、現状KKOを検索してみると、それこそ「KKOは歯を磨いて風呂に入れ、いい服を着ろ」とか「KKOは女を叩きたいだけ」と、まぁKKOは弱者男性のステレオタイプとして安直に利用されているのが現実だ。
これは、誰もKKOの人権ということを気にしなくなってしまったということなのだろうか?
さて、僕はKKOという名称がでてきた頃から、そのことは予測していた。KKOという名称は、弱者男性への蔑視にほかならず、この名称を使ってよしとしていること自体が、KKOに対する同情や救済ということを、単にネタとして利用しているだけに過ぎないのだと。
そして実際そうなった。予測は当たったのであり、当時KKOという名称を多用していた人たちは、僕にいくらか勝ち金を支払うべきであろう。
冗談はともかく、今はなぜかKKOの問題を「KKO自身の自己責任」と「KKOを養わない女性の責任」として語っている人がいるようだ。
前者については語るほどのこともない、単なる自己責任論だ。では後者の話はなにか?
単純にいうと、これまでの日本社会では、働いていない女性を働いている男性が養っていた。だから、今は働いている女性が働いていない男性を養うべきだという考え方である。
僕はこの考え方に反対である。というか、そもそも成り立たない。かつて働いていた男性が女性を養っていた理由は、別に女性に同情したからではない。
「男は結婚して当たり前」という世間体や、「産む機械とセックス用」としての女体の利用、そして「家事労働への利用」という、男性というか「イエの論理」がまかり通っていたというだけの話である。
イエの論理が少しずつ解消され、単身者が暮らしやすくなった社会で、子供も産めず、セックス用としての利用価値もなく、下手すれば家事なんかしない男性を、女性が養いたいと思うだろうか?
そもそも男性だってそのような女性を養う理由がなくなってきているのに、どうして女性が男性を養うべきだなどと思えるのだろうか。
KKOを養うことに、女性は何のメリットも無いのである。それを女性の責任に帰すことはイチャモンとしか言いようが無いのである。
それはともかく、ここで論じるべきは、そもそもKKOという言葉は、どうして失敗したのかという点だ。
端的に言えば、「キモくてカネのないおっさん」というこの言葉には一切
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