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母について

母は癲癇を持っていたので、両親は3人の子にその兆候があらわれることを見逃さないよう、神経をそばだてて育てた。遺伝の可能性が考えられたからだ。小学校にあがるころまで何もなければひとまず大丈夫だろうと医者にいわれ、それを越えてようやくほっとしたときの両親の心持ちは、安心しながらも、それでも完全に目を離せるものではなかったはずだ。
母は数年に一度は発作で倒れた。泡を噴いて身体を痙攣させて倒れる様子は、幼い自分の目にも焼き付いている。身体が自分の制御の効かない動きをし、意識を失うことの恐怖。4つ年上の姉は、倒れた母のために布団を引き寝かせ、座敷の障子を閉め切ってふたりの弟を締め出した。そして自分ひとりで母に水を飲ませ背中をさすり、父が仕事から帰宅するまで介抱をした。とはいえできることがそれほどあるわけではない。毎回のこととはいえ、実際には何かに祈り途方にくれていたのではないか。姉は母のその姿を弟たちに見せまいとした。主体を失い身体を暴れさせる姿を。なぜ姉はそれを隠そうとしたのか。幼い弟たちに母の恐ろしい姿を見せたくなかったのか。幼いなりに姉が必死で守ろうとしたものは、なんだったのか。それでも、自分は障子を細くあけてその姿をのぞき見、目に焼き付けている。いま考えると、そのころの姉は10歳にも満たない年齢だ。彼女がどれほどの恐怖と向かい合っていたのかと考えると、言葉にならない。姉は、ときどき体調を崩す母を補う役目を、そのころから高校を卒業し家を出るまで続けた。
母の人生はずっと癲癇の投薬治療とともにあった。60代の半ばくらいまでは定期的に発作があった。頻度は減り、発作の程度も穏やかなものになっていったのは、よい薬ができたからだろう。母が最後に大きな発作をおこしたとき、痙攣しのけぞり暴れる力の強さは、彼女自身の背骨を折った。発作が背骨の骨折を引き起こしたのだ。そのころ両親はふたりの生活を送っていたので、一ヶ月のあいだ自宅で寝たきりの母を父が面倒みた。母は、そのときに父が生活の世話すべてを甲斐甲斐しくしたことを誇らしく語る。老齢をむかえる年齢で体験したこの出来事は、きっとその後のふたりの関係によい影響を残したのではないか。そして70代の半ばくらいだろうか、主治医からもう薬を飲まなくてもよいと告げられ、ようやく彼女は癲癇から離れることができた。

昭和17年に生まれた母は、女で、部落で、癲癇を持っていた。ひとりのひとに複数の差別が重なる。加えて母は、乳児のころに縁側から落ち怪我をした。下にあった竹ボウキの上に落ち、喉元に大きな傷が残った。正面からは見えづらいが、少し顔を傾けるとその傷は目立ったろう。若いころの彼女は、それに向けられる視線にも慣れる必要があったのではないか。部落や癲癇であること以上に、実際に目にみえる傷跡は、彼女にとって具体的な抑圧となったことは想像に難くない。

母は、ことさらに自身が受けた差別を意識して話すことはない。差別について話題にすると「お父さんと違ってわたしはあまり難しいことはわからない」という。部落で百姓だった母方の祖父は、地域の指導的な立場を担い、解放運動や農協などにも携わっていた。そういうものを横目で見ながら、戦中の貧しさが少しづつ解消されるなかで母は育った。直接的な差別を受けた記憶はあまりないという。
彼女は、まわりの親しい友人たちに比べると少し婚期が遅れ、すでに自分はもう結婚などせず生きていこうと考えていた父と縁があって見合い結婚した。その直前、彼女にはよいひとがいたらしいが、結婚の話題になると避けられたという。それは彼女の自尊心を毀損した。相手の生煮えな「結婚しないでも今のままの関係でいればよいじゃないか」という言葉に、「お嫁さんになる」ことを自ら当然歩む道と考えていた彼女は腹を立てた。相手の言い訳のなかで、部落や癲癇のことは直接には語られなかっただろう。それでも、彼女なりに自分が軽んじられていることは理解したようだ。そういうタイミングで「お見合いでお父さんに出会おうたのはよかったわぁ」という。

差別を受けることを感じながら、自ら語ること、意識の俎上にあげることを避けてきたひとの、避けざるを得なかったひとの、言葉の少なさを補うことは、その子の立場からも困難だ。

どのような疾病もあるいは障害も、あるいは差別を受ける属性も、本人や家族にとって、それはともに生きるほかないものだ。他者がそれを忌避し、嗤おうと、ともに生きるほかない。そのリアリティはどのように共有されるだろうか。いまの社会にあってその共有のされなさに出会うと、毎度のこととはいえ呆気にとられる。ただ呆気にとられる。

※先日、癲癇発作をネタにしたキモオタの投稿を見かけ、度し難く、怒りが収まらないので少し書き残しておく。

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