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メモ - 山城知佳子

竹橋で山城知佳子のアーティスト・トークを聞いた。作品「肉屋の女」(2012)について語ることがテーマになっているトークだった。印象に残ること、もやもやと残ることなどいくつかあったのだけど、すぐには言葉にしないでおこうと思った。トークにはそれ相応の余韻が残り、その余韻が整理されるには、もう少し時間がかかるだろうと帰り道に思った。それなのにやはり書くことにしたのは、その深夜にカマラ・ハリスが大統領候補になりそうだという速報にふれたことがきっかけで。少しメモを残しておく。

「肉屋の女」に至るまでの活動について、学芸員の方なのだろう、司会の方が話を振りつつ話題が進み、一連の流れのなかで少し空気が変わったのは先日報じられた「米兵による女性暴行事件の報告の件」が話題に出されたことがきっかけだろうか。山城さんが言い淀む場面が目にみえてあり、そこには、沖縄であること、女であることからの表明を迫られる居心地の悪さを感じた。それが作品の解釈に対して「両義性」を許容するという話題につながったのだろう。作家が作品をとおして自らの政治的立場を表明することは義務でもなんでもないが、とはいえ「XXに政治を持ち込むな」論にうんざりしている者としては、もの足りなく感じたかもしれない。解釈の両義性は、強い意見表明を相対化するようにも見えてしまうから。
それでも、そこにはその政治的表明と同時に存在する芸術表現ならではの位相があったのは間違いないと思える。もの足りなさよりも、そのことを肯定的に受け止めた。なにしろ自身の普段の生活のなかで食べて寝て、何かに出会ったり学んだりすることと同様に、座り込みに行くことを織り交ぜて語っているひと、暴行事件に関してもすでに批判的に言葉を発しているひとに、改めてその政治的表明を迫るというのも滑稽な話だ(司会の方は十分健闘されていた)。作品がフィクショナルな展開へ進み、抽象を纏うことによって、より両義性が際立っていく。言論(特に論理性の強い言論/行為)ではなく、視覚表現を選んだ作家がそこに注目するのは当然と思う。そして写真よりも映像がよりそこに分け入ってゆくのも当然の流れだろう。ひとつの起承転結を持たず、体験としてその視聴空間を包み込むように見せる映像作品が、抽象の度合いを高めることは必然だ。このとき、読み手に作品の解釈を受け渡すことは、作家本人が思想を持たないこととイコールではない。得てして普段から政治的立場を鮮明にして生きている自分にとっては、これを混同しがちに思う。もの足りなく思いがちだ。これは気をつけねばならないと思った。
それでも、もやっとしたのは、政治的であれという圧力と、政治を持ち込むな圧力の板挟みによるプレッシャーが、このような姿勢を引き出しているのかもしれないと感じたから。そこをもう少し語ってほしいと思ったりしたのだけど、それでも十分に仄めかされているものからわたしたちは受け取ることができる。作品は決して「答え」ではない。とはいえ作品が「問い」にだけ終始するなら、それはきっとつまらない。それでは作家の身体が見えてこないだろう。山城知佳子の作品のおもしろさは、やはり作家の身体をつかった体験がドキュメンタリーとしてそのなかに残っていることなのだろうと、改めて思った。そこには作家なりの「答え」も、ひょっとしたら仄めかされているはずだ。両義性を自明としてもなお、期待して仄めかしを探すのは、自分の場合はもう致し方ない。なんでも政治性というフィルターをとおして見てしまうことから、もう逃れられないし逃れる意志もないのだから。

そして、なぜカマラ・ハリスの話題がこれにつながるのかというと。日曜の深夜、もう寝なければという時間になってバイデンが撤退しハリスが大統領候補になりそうだという速報が流れた。その話題のなかで、シャーリー・チザムに言及したアメリカのジャーナリストによるTwitterの投稿がタイムラインに流れていった。シャーリー・チザムは初めて黒人女性として民主党の大統領指名候補へ立候補したひとだ。1972年のこと。それをみて以前に読んだ『アメリカ黒人女性史 再解釈のアメリカ史-1』(勁草書房, 2022)の、チザムについて書かれた章を明け方にかけて再読した。ここには1970年から2000年の出来事が列挙されている。チザムの伝記や彼女に対しての論評で章が埋まっているわけではない。チザムを起点にして、時代を追いながらまざまなアクティヴィスト・政治家のやってきたことが、例えばニーナ・シモンやマーシャ・Pを経て、ローリン・ヒルにまでつながって語られている。
そのなかで、黒人女性が権利回復を求め立ち上がることに対して、黒人男性や同じ黒人女性もが支持しなかった経緯や、白人のフェミニズムとは(例えそれが戦略的にであっても)線を引かれてきたことが語られていた。社会が黒人男性の職を奪い、そのため黒人女性が家事もしながら一家の生計を担うことになると、彼女たちが男たちの自立を阻害しているように考えるひとが内部からあらわれる。黒人の男たちを弱体化させるのは、強い黒人女性だ。そういう描写がある。ブラック・フェミニズムのなかにもしばしばあらわれる、自らその前進を阻害する規範。これは不当なことだが、アクティヴィストたちは、抗う相手と、それら身内からの反動とに板挟みにされてきた。

昨夜の山城さんの語りのなかで、ひとことだけ「沖縄の女性性」ということが発せられていた。その話題はそれ以上にそこでは深められなかったよう感じたのだけど、何を言おうとされたのか、引っかかったまま帰った。沖縄は母系社会であり、沖縄の女は強い。未婚や離婚によって自立して子を育て生きる女性の多さ。そしてその裏返しに語られる男たちのダメさ。そしてまた、そのダメさの原因を女性の強さに転嫁する家父長制的価値観。つれあいの祖母(義理の祖母)である今年カジマヤーを迎えるおばあの語りを思い出す。戦後帰るところを失い都市のディアスポラとしてコザの街で生き、夫婦で仕事に追われながらその街に定着し、ときにはおじいの奔放さを支えるようにして、苦労をしながら子供たちを育てた沖縄の女性。その語りが一瞬あたまをよぎった。
その引っかかりが、ハリスからチザムへの連想のなかで、自分のなかでは結びついた。とてもタイムリーに。黒人の女性たちと沖縄の女性たち。ひとりのひとが、その属性を背負い表現することを迫られる。そこには聞き手の期待もともなう。その不当さと、どうしてもそれらまとわりついてくるものから自身を引き剥がすことなど到底無理な切迫さと、板挟みのなかで表現することを、チザムから山城知佳子への連想で考える。美術家は、なにもかも社会性や歴史性を剥ぎ取ったところから、自らの表現を組み立てることはできるのか。それは作家の「素」や「純粋」を示すものなのか。作家がそれを希求することは理解できるが、本当にそのようなことが実現するだろうか。チザムは「たまたま黒人で、大統領候補に立候補した初の女性、としてひとびとの記憶に残るのはごめんです」という。「変革を起こすために闘ったひとりの女性として記憶されたい」という。その希求は、普遍性への希求だと自分は考える。少なくとも自分は、その希求自体が不当なものだとは思わない。それでも、それが実現するかには懐疑的だ。
そんなことを念頭において、これから山城知佳子の変化を見ながら、自分は同時代を生きることができるだろう。それが板挟みなどすでに越えたところからの表現になるのかは分からないけれど。とりあえず、拙速に残すこのメモがまた更新されることを期待している。

『アメリカ黒人女性史: 再解釈のアメリカ史-1』ダイナ・レイミー・ベリー、カリ・ニコール・グロス著、兼子歩、坂下史子、土屋和代訳、勁草書房、2022
※ 余談だが、おっと思ったのは、チザムに言及した本書の第10章のなかに、ある人物のセクシャル・ハラスメントへの追及を隠し去ったひととしてジョセフ(ジョー)・バイデンの名前が登場したこと。なんともタイムリーだが、撤退すべくして彼は去ったのだ。そう思う。

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