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八重洲のガラスとラミネート2020年以降のデジタル写真と都市の表層

text: 中村史子

 イメージがイメージの内を穿つように次のイメージへと連結する。
 ニューシナリオの《CHERNOBYL PAPERS》は、チェルノブイリ爆発事故の被災地で実施された展覧会の展示記録写真からなるスライドショーである。ピンチアウトするように、画像内のドローイングや遺物の一部に寄っていくと、次の画像へとぬっと変換されてゆく。画像同士を繋ぐシームレスな動きは、写真集のページをめくる動きやアナログなスライドショーの回転とは大きく異なる。画像が相互に連鎖する様は、これらの画像が、チェルノブイリの事故現場という現実の一景を切り取った痕跡(インデックス)である以上に、次の画像、別のイメージの指標(インデックス)として機能していることを強く意識させる。

New Scenario《CHERNOBYL PAPERS》 2021 展示風景 写真:竹久直樹

膨大なイメージのアーカイヴの中を、相互に参照する様子は、ヨアキム・コーティス&エイドリアン・ゾンダーレッガーの作品にも見て取れる。歴史的な過去の写真をD I Y的な手法でもって再制作する「ICON」シリーズは、写真イメージの操作性を問うものだ。無論、彼らに限らず、アナログ写真の時代から、写真家はしばしば絵画等、特定の「手本」に倣ってイメージを作り出してきた。しかし、ヨアキム・コーティス&エイドリアン・ゾンダーレッガーの試みは、「手本となるオリジナルのイメージ」から「再制作されたイメージ」という時系列には収まらない。ブレッソンの横はマルボロの広告か、向こうに見えるのはネッシーか。展示空間には、彼らが制作したイメージが並ぶが、その背後には元となる歴史的イメージのアーカイヴが不可視のまま浮かび上がる。その際、芸術作品、報道写真、広告写真といった元来の領域は溶解しており、どの写真も、彼らの活動の着想源となりうる膨大なイメージソースの一部となっている。その中で生じるのは、オリジナルとコピーといった単線的な動きではなく、膨大なイメージ同士の相互のフロー、参照性である。

Jojakim Cortis and Adrian Sonderegger《ICONS》展示風景 写真:竹久直樹

さらに、彼らはあれ、ぶれ、ぼけなど過去のメディアのコードを積極的に抽出し、それをメディアによらず物理的工夫で自作に取り入れようとしている[i]。こうしたメディアのコードの相互参照という試みが、最も明晰な形で現れているのが松田瑞季《S I→WA》である。松田は、自作をスマートフォンのパノラマ機能が生み出すパノラマ写真へと紐づけつつ、そこからの逸脱や差異を作品化している。一枚の画像内に複数のヨットがありえない姿で並ぶように、パノラマモードの写真とiPhoneでのスクリーンショットという複数のメディアのコードが、一枚のイメージの内部に異種混淆的にある。メディアのコードもまた、時代の区分で明確に分けられるものではなく、幾たびもの後戻りや再発見を孕みつつ併存しうることを示唆しているのだろうか。

松田瑞季《SI→WA》2022 展示風景 写真:竹久直樹

以上、最初に、現在のデジタル画像の特性(相互参照性、膨大なイメージソース性、技術の相互陥入性)が顕著に見られる作品をいくつか例示した。事実、都心部の屋外を主な会場とするこの写真展は、出展作品の多くがデジタルデータから成るゆえに可能となっている。リンク先からデータをダウンロードしてください。ドライブ上のデータを確認してください。動画、静止画を問わず、そのような言葉を添えられ共有されたデジタルデータ。それを展覧会主催者が出力することで、屋外でも展示可能な写真作品が生み出される。

 それゆえ、「THE EVERYDAY」展の出展作品はデジタルデータとしての出自を曖昧にしないどころか、徹底的に、デジタル技術に取り囲まれた時代、デジタルデータから成るイメージが行き交う時代を再帰的に映し出そうとしている。それが本展でいうところの「魚が水について学ぶ方法」なのだ。

 ただ、作品自体がデジタルデータであっても、それは全く物質性を伴わない訳ではない。むしろ、デジタルデータは何らかの物理的な依代のもと、目に見える形へと出力される。ありていに言えば、支持体が必須である。本展でイメージの支持体として選ばれたのは、まさに八重洲の街そのものであった。

 それは例えば、薄手のシートへと出力されビルの外壁やガラスへと貼られるといった形で行われる。その際、各イメージは、八重洲の建築物表面に皮膜のように密着し積極的に溶け込もうとしているように見える。実際、外壁に圧着された作品の中には、外壁のタイルの凹凸を作品表面に拾っているものもあれば、イメージの内側を建物の窓枠が横切っているもの、あるいは角柱の周囲に巻きついているがために、イメージが途中で90度に曲がっているものもある。作品のイメージサイズは必須条件としてあらかじめ確定されてはおらず、支持体となる展示場所の構造に寄り添う可塑的かつ一時的なのだ。

しかし、誤解のないように急いで付け加えるならば、上記のような状態を私は批判的にみているわけではない。それどころか、徹底的に作品を八重洲のビル群の各部位へと馴染ませる展示スタイルは、本展の主旨である、生活とあまりに不可分であるがゆえに意識されづらい、2020年代以降のデジタル写真について考えること、繰り返すならば「魚が水について学ぶ方法」の実践そのものと感じた。

周囲から切り離され明らかに自律した「写真作品」ではなく、生活環境の隅々にまで浸透し、私たちの思考回路や所作振る舞いにまで影響を与えている「写真的」なるものについて考える。それには、目をひくスペクタクルな展示物や、周囲の環境から境界確定されたいかにも「芸術的」な展示物は適切ではない。広告のように、ディスプレイのように、建材のように、街の各所に偏在し、建物の構成要素とフレームを共有する出展作品。その意味において、八重洲の街は「展示会場」である以上に、作品の「支持体」となる。

さらに本展では、八重洲に張り巡らされた複数のインフラやシステム、そこを行き交う人々の日常的な振る舞いが、各作品の背景あるいは構成要素としても機能している。

わかりやすい例として、アラム・バートルと谷口暁彦の作品が、ビルの地下1階部分に広がる小さな広場にあったことをあげたい。ベンチや植栽の横に腰掛けスマートフォンを覗き込む人、あるいはスマートフォンを確認しつつ慌ただしげに行き交う人がいる。電波が確実に入ること、行き交う人の誰もがスマートフォンを持っていることが前提となる環境だからこそ、「Internet」を物理的に打ち壊すバートルの行為や、スマートフォン片手にヴァーチャル空間を彷徨う谷口の作品がより一層批評性を帯びる。ここで作品が考察の対象とするのは、情報のインフラが整備された街に暮らす現代の人々の慣習や思考回路だからである。

谷口暁彦《parallax》2021 展示風景 写真:竹久直樹

あるいは、臼井達也の展示も日本郵便輸送の営業所という場所と結びつくものだ。臼井が作中で扱うAmazonは、日本郵便と同じく宅配を行う企業である。ただ、Amazonの電子商取引は、日本郵便とは桁違いの規模で世界中を覆い尽くすと同時に、日常生活の内部にまで入り込んでいる。どんな本や音楽、映画を好み、1ヶ月にどのくらいの頻度でどの銘柄の発泡酒を消費するのか。個人の私生活の細部を最もよく把握しているのは今やamazonではないか。しかしながら、そこまで生活に深く介入しているにも関わらず、アメリカの巨大IT企業であるamazonの姿は、日本郵便の営業所やそこで働く人々のように、個別具体的で生身のものとしては見えてこない。臼井が提示する置き配報告の写真は、徹底した宅配システムの合理性と、それがもたらす平板な不気味さを浮き彫りとする。

臼井達也《unattended_delivery》2020- 展示風景 写真:竹久直樹 

加えて、かんのさゆりが被写体とする新興住宅地の風景もまた、再開発の途上の八重洲の街並みと呼応している。東日本大震災後に新築された一戸建て住宅の多くは、レンガ調の意匠を施した外壁や、金属系の硬質なサイディング(仕上げ材)など、居住者の趣味やライフスタイルを反映する。ただ、その「個性」はメーカーの提供する選択肢の内から作り出されている以上、特定の時代の趣味嗜好および技術、流通システムなどの諸事情と切り離せず、同時期に再開発される八重洲のそこここにも、見て取れる。実際、かんのの展示場所近くの蕎麦屋は最近改装されたらしく、住宅にも使われるようなマットな暗色系のサイディングに覆われていた。これら町を覆う資材により、東京中心部の一角と郊外の個人の一戸建てが思わぬ形で重なり合い、見る者の思考を緩やかに刺激する。

かんのさゆり《パレード前夜 》2014- 展示風景 写真:竹久直樹

さらに、支持体としての八重洲の街を捉える上で注目すべきは、ガラスの存在であろう。八重洲には、ファサードなどにガラスを多用した建物がいくつもあり、長沢慎一郎、新居上実、ヨアキム・コーティス&エイドリアン・ゾンダーレッガー等、ガラス面に展示された作品も少なくない。

とりわけ、新居上実は作品の被写体としてもガラスの器を選んでおり、ガラスへの関心の高さがうかがえる。透明性を備えたガラスは、レンズ、すなわち光学装置としての写真のメタファーとなるためだろうか。あるいは補助線として、写真は透明なメディウムであるというグリンバーグの言葉を引いても良いだろう。彼曰く、写真は表象されるイメージが前景化し、写真というメディウム自体は透明視される。であるならば、被写体としてのガラスを選ぶことは、写真に対する自己言及的な振る舞いといえよう。

新居上実《Glass》2022、《家》2021 展示風景 写真:竹久直樹

さらに本展では、建物の内外を隔てる幾つものガラス壁面により、極めて複雑な状況が生じている。ガラス表面に写り込むこと。ガラスの向こう側が透過して見えること。あるいはガラスに貼られた作品が見通しを妨げること。その只中に、ガラスを素材とするスマートフォン、タブレットのディスプレイがチラチラと光を放ちながら差し込まれる。

これらガラスが生み出す複雑なイメージの照応関係を最も批評的に活かしたのが、ファサードに張り巡らされた長沢慎一郎の作品ではないだろうか。彼の展示会場では、作品イメージのシートや透明なガラスによって、建物の内と外、ビルの利用者と鑑賞者が時に区分され、時に接続される。それは、長沢の作品の主題とも強く呼応する。東京都心の人々と東京都小笠原諸島の人々。まさに「近いようで遠くにある」二つの場所と、お互いの眼差しが、一時的に交差する。

長沢慎一郎《The Bonin Islanders》2021 展示風景 写真:竹久直樹

さて、「魚が水について学ぶ方法」について、作品そのもの及び作品と八重洲の街との関わりから読み解いてきた。そして、2022年現在、建物の内外に皮膜のように貼られたイメージや、ガラスという建材に言及した以上、この街に点在するラミネート加工された注意書きについても触れたい。新型コロナウイルスの感染拡大対策について周知すべく、随所に掲示されたラミネートの中には、2020年から既に年月を経て、汚れ、曇り、ヨレが目立つものも多い。しかし、いずれも、すっかり街に溶け込み、人々もそれに適応しているように見えた。そして、私は本展をめぐるうちに徐々に目に入るようになったラミネートの注意書きを見やり、あらためて次のことに気づいた。これらのラミネートの注意書きもまた、デジタルデータをもとに出力され、ラミネート加工の後に一時的なものとして屋内外に掲示されている以上、実は出展作品とメディアの状態としては大きく変わらないということだ。つまり、これらもまた、魚の周りを囲む水の一滴に他ならないのだ。

再開発を経て、いかにも洗練されこざっぱりしたビル群と、昭和の趣きを残すやや時代がかったビル群。その両方に点在する作品とラミネートの注意書き。その最中を行き交うマスク姿の人々。本展を巡り断片的にみえてきた2022年の現状が、はっきりと今、像を結ぶ。

そのうえで、最後にディアナ・テンプルトンの作品について触れたい。「What She Said」シリーズは、作家自身が10代の頃に綴った日記と、当時の彼女と同世代の女性たちのポートレートから構成されており、見る者の共感を掻き立てるイメージと言える。実際、写真集という形で一頁ずつ手元でめくりながら各イメージと面したら、どれほど感情を揺さぶる体験になったかと想像する。

Deanna Templeton《What She Said》2021 展示風景  写真:竹久直樹 

しかし、今回は、明るく開かれた場所にて、鮮やかなタイル地の壁面や鏡面状のバックパネル、そして何より、この写真も他の掲示物もメディアとしては同じ形態という酷薄な現実と共に鑑賞することとなる。結果、各イメージの感傷的な側面は一定、抑制されていた。

そして、それはある種の批評性を帯びているようにも感じられた。一時的な現在性のほうが、過去性より強く表出される今の環境にあって、写真は、取り戻せない過去やそのノスタルジーとは別の次元に今やあるのではないか。とはいえ、無機質で乾いたものでもなく、むしろラミネートで覆われたイメージのように、つるりとした表層と、それでいてどこか皮膚的な触覚性を備えたものとして。それは、従来とは全く別種の現在性を刻んでいるのではないだろうか。

本展の中でも極めてオーソドックスで人間味に溢れる本作品が、この会場にあることの意義について再考しつつ、私はガラスで仕切られた空中庭園へと、足を進めた。


[i] 例えば、ニエプス《ル・グラの窓からの眺め》のぼやけたイメージは、現像やプリント時の光学的工夫ではなく、被写体自体にスプレーで泡状の飛沫を付けて再現している。

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