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vol.058「伝わらなかったはなし:書家と名君と、オレの房玄齢熱。」

5年前の今週は、東京国立博物館の特別展『顔真卿 王羲之を超えた名筆』を観ていました。その翌年に新型コロナウィルスが世界に拡散し、さらに翌年には首都圏を離れて転勤。この時点ではもちろん予見してなかった。


◆なぜ書家≒政治家だったのか

顔真卿(がんしんけい)、名前だけは聞いたことがあった。たしか高校の世界史の教科書にも載っていたように思う。
彼にかぎらず、中国の書家や詩人は、しばしば政治家でもあった。展示会タイトル、そして「みどころ」にも名前の出ている王羲之(おうぎし)、褚遂良(ちょすいりょう)もそうだ。
偶然かどうか、忠臣だった、義の人だったという記述(伝説)もまま見られる。褚遂良は、武照(武則天)を皇后の座につけることに反対。左遷・流刑に遭い、中央に戻ることなく亡くなった。顔真卿は、叛臣にその人物を見込まれ、配下につくよう説得されたが拒否。惜しまれながらも殺された。Wikipediaに「中国史でも屈指の忠臣」とある。
日本だと菅原道真だ。実像としてはエリートの、意識高い系。ちょっと嫌なヤツだったと思われる。けれどやっぱり、悲劇の主人公として名が残っている。

書家や詩人に政治家が多いのは、おそらく偶然ではない。環境の問題。確率の問題だ。
人類が文字というものを発明してから、ずいぶん長いあいだ、庶民に生まれると、文字に触れない。識字の機会がなかった(推測まじりです)。子どもの頃から家業を手伝うか、弟妹のお守りをするか。労働した。職業選択の自由がなかった、そもそもそんな概念がなかった。基本的には親の職業をついだ、という話は、アジアに限らずヨーロッパでも登場する。

文章を読み書きする必要性がある。教師をつけて学ぶ環境がある。紙や墨、筆、すずりを買い与えられる―。
いずれも、一定以上の財産、または社会的地位(身分)でないと起こりえないことだった。
だから、詩をうたい、書をものしたとして、それが後世に残るには、そういった家系に生まれる必要があった。権力者の目にとまる確率の問題、記録に残される確率の問題だったと考えている。

裕福な家に生まれるか、国家試験に受かって政府に仕え、高級官僚として出世するか。一定の環境になければ、チャンスも発生しなかっただろう。詩を詠むことそれ自体は、生きていくうえでは"生産性ゼロ"だからだ。
現代では、政治家と後世に残る芸術家が同一人物、ということは起こり得ない。けど、当時はきわめて近い位置どうしにあった。政治家や官僚たち、現代の日本でいえば、霞が関と永田町が、詩人・書家の供給源になっていた。
「書く」という贅沢な行為、「記録する」という資源、最新技術を独占していた。

◆"名君"の虚構と実像

顔真卿は、安史の乱、つまり玄宗の時代の人だったけど、作品リストにも多く名前のある褚遂良や欧陽詢は初唐、太宗の時代の人だった。
太宗(李世民)を描いた『貞観政要』には、彼と臣下たちの対話のエピソードが多く登場する。「現代の経営者の必読書」といった書かれ方、帯の推薦を目にするけど、唐から近代にかけての君主や政治家たちも愛読していたらしい。

李世民の没後半世紀ほど、つまり唐代のうちに、半公式的に編纂されたものだから、誇張・美化がまじっている可能性が高い。とはいえ、それを割り引いても、読んでいて参考になる。
李世民が、誰からも愛される、生まれながらの名君(天才・天然)だったかというと違っておて、素は自他に厳粛な、気難しい、かんしゃく持ちの人だったらしい。
諫臣の代表とされる魏徴が、苦言を呈するつど、腹を立てながらも、辛抱づよく聞いた。名君であった。もしくは、その逆。怒って癇癪を起こす主君に、何度でも粘り強く苦言を呈した。まわりにいた部下が、名臣ぞろいだった。太宗は運がよかった。恵まれた君主だったー。

『西遊記』での李世民は、玄奘と義兄弟の契りを交わし、出立時に盃に土を一つまみいれて見送る(故郷の唐を忘れないようにの意図)。優しくユーモアのある人物として、いわば良すぎに描かれているけれど、あれは創作。
魏徴も登場して、天帝の命をうけ、夢の中で涇河の龍王の処刑を執行する役を担う。恨んだ龍の王が太宗にたたり、地獄めぐりツアーをさせられ、よみがえって仏教で国民(くにたみ)を救うことを思いつく―。
実際の太宗は、玄奘を多くの取経挑戦者たちの中の一人(one of them)として認識していた、または単純に知らなかったと思う。成果を獲得して帰還して、はじめて謁見させたのではと想像している。

李世民と似ているのが、宋の太宗・趙匡義(ちょうきょうぎ)。同じ称号でまぎらわしいけど、「太宗」は、皇帝の二代目によく使われる呼び名だそうだ。兄(初代)・趙匡胤が感情豊かで、人々に好かれるタイプだったのに対して、冷静で面白みのない(おそらく)むすっとして近寄りがたいタイプだった。そして、行政、科挙の制度、財政などを整備し、宋代の基盤をつくった。

二人に共通するのが、皇帝の座につく際、いわくつきであるということ。李世民は、兄(李建成)を殺害して、父(李淵)を退位させ、二代皇帝になった。趙匡義は、公式記録としては残ってないけど、兄を暗殺したのではないかという疑いを持たれた。
李世民の話は、隋の煬帝と同じパターン。「李世民は煬帝と同じに見られることを恐れた。だから名君であろうとしたのではないか」という推察が、出口治明さんの著書に登場する。
趙匡義は「密室で二人きりのときに殺した」説。ちょっと劇画的=話が出来すぎ、と思えるけど、真偽はわからないものの、すくなくとも有名な事件として記録されている。

両者に見てとれるのは、後ろめたさも含めて、その後の仕事=治世にまい進した、ということ。部下の見る目、世間の評判、のちの世の評価を気にして、要するに「格好つけた」と思われること。
「格好つける」ことはかなり有効なアプローチで、「人の目は気にしません」「自然体でいきます」よりもずっと良い。
気にしない、自然体、というのは、意地悪な言い方をするなら「無理しません、努力しません」と同義語だ。
周囲からどう見られるかを気にする。すこしでも、マシな人間でいること、誰かの役に立とうとすることが重要で、「心がけよりも目に見える形が大切」な好例だ。

出口さんは著書のなかで「太宗が仏教を大切にしていたのは事実で、拓跋国家は、仏教をあつく保護していました」と述べている。
「唐では老子(同じ李姓)を尊び、道教が上位だった(道先仏後)。唯一の例外が武則天で(自身を正当化するため)仏教のステータスを引き上げた」という理解をしていたから、この話は衝撃だった。
解説によれば、①権力を奪取する際には「易姓革命(天命により政権交代する)という理屈が用いられた。天命を受けるのは漢民族、の前提があった、②隋・唐政権は北方の騎馬民族で、易姓革命を根拠にできず、かわりに仏教の「鎮護国家」の思想を利用した、ということらしい。

◆『顔真卿展』を観る

特別展『顔真卿』は、平日の午前お休みをいただいて、観に行った。週末の混雑情報から判断。チームメイトに了解を取っての駆け足ツアーだ。
さほど予習ができないままに行ったら、顔真卿、王羲之はもちろん、それ以外のラインナップの豪華さにびっくり仰天。
虞世南、欧陽詢、褚遂良(初唐の三大家)。
太宗の筆。その息子、三代目の高宗の書。
武則天。太宗の側室だったが死後、そのまま高宗の後宮に入った。※儒教の価値観では忌まれるが騎馬民族の感覚では通常のことだったという。後に四代目として皇帝の座についた。
それに玄宗。蘇軾(蘇東坡)。
第二展示会場は、日本での唐代の影響と受容がテーマ。
最澄。嵯峨天皇。空海。橘逸勢(たちばなのはやなり)は嵯峨、空海とあわせて「三筆」)
蘇軾、空海って、脇役のおまけで展示するものだっけ。
「褚遂良の書いた『房玄齢碑』」など、贅沢すぎて興奮のきわみ。房玄齢は杜如梅、魏徴や褚遂良らとならんで太宗を補佐した名臣だ。
すくなからず高揚しながら、会場内を歩きまわり、満足してオフィスへと向かった。

◆伝わらなかった、「オレの房玄齢熱」

会社に着いたらちょうど昼休み。チームメンバーがランチを広げるところだ。
「顔真卿展、行ってきたよ」
「どうでした?」(←気遣いで反応)
「顔真卿、王羲之以外の出品がすごかったわー。空海、弘法大師とかしれっと出てたよ」
「へー」(←気遣い。以下略)
「唐の太宗、李世民の書とか。玄宗、李隆基とか」
「へー」
「武則天、則天武后ってわかる?唐を一時奪って皇帝を名乗った女性」
「あ~、はい」
「千年以上前だから、もちろんレプリカや版画の展示が多いんだけどね」
「はあ」
「太宗から高宗→則天武后、からの玄宗って、すごい流れやわー」
「はあ...」
(だめだ。このすごさが判ってない...!)

そこへもうひとり、チームメイトが戻ってきた。
「顔真卿展を観てきたんだけどさー」
「何ですか、それ」
「中国史上いちばん有名な書道家。上野の美術館で開催されてる」
「へー」
「書道とか文字、そもそも教育のコストが高い時代だから、庶民のものではなかった。書家=政治家だったりするわけよ」
「へー」
「唐の太宗、李世民って中国史でも人気のある皇帝でさ」
「へー」
「ほら、『西遊記』で玄奘三蔵がインドに行くとき見送った人だよ」
「はあはあ」
「実際には、帰ってきて有名人になる前だから、見送ってないんだけどねっ!」
「はあ」
「房玄齢はわかる?唐の一時代を作った大臣クラスでさぁ」
「わからないです」
「じゃあ、杜如晦は?」
「わからないです」
「じゃあじゃあ、魏徴は?」
「いま、頭の中にローマ字が浮かんでます(笑)」
「・・・それなら、『同僚の褚遂良が書いた房玄齢碑』のすごさ、はわからんよね」
「わからないです」
「うーーーーん。オレの房玄齢熱、伝わらんか~!!」
「伝わらないですね~」

歴史上のスーパースターたちの息吹に触れた大興奮。残念ながら理解してもらえず。
『貞観政要』によれば、あの名君、太宗でさえ、部下と我慢づよく会話した。または部下たちがかなり根気よさを求められたという。まして凡人が、自分の言いたいことが思うように伝わらないのは当たり前のことだと、よく理解できた事件でした(苦笑)。

(追記)
出口さんは『座右の書 貞観政要』を著し、賞賛もしているけど、唐の太宗を第一位の評価にはしていない。たしか康熙帝と、クビライを、最高クラスの君主として挙げていたと思う。
康煕帝はイエズス会を公認。異国の宗教に寛容だった。クビライはざまざまな異民族のなかから優秀な人材を登用した。
共通点を挙げるとすれば、現代でいうダイバーシティだろうか。個人の偉大さよりも多様性や学習を重視、評価する出口さんらしい見方だと思います。

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