見出し画像

8月7日生まれが8月6日に想いを馳せる

1.初めに

🫧「大人」って?

最近、電気代が高い(らしい)。
なのに、寝室の電気やテレビを付けっぱなしで寝落ちしてしまう。
もっとも、超絶実家暮らし中なので、直接的なダメージは無いと言えるが、
その程度のこともできない自分に嫌気がさすことがある。
(翌朝の母上からの小言攻撃がさらに追い討ちになる)

幼い頃のボクが思い描いていた「大人」は、もっとしっかりしてて、落ち着いてて、頼りがいがある存在だったけれど、今の自分は全然そんなことない。
むしろ、危なっかしくて落ち着きがない。

🏈やりたいこと

都会のビルの、ピカピカに磨かれたガラスに映るスーツ姿の「大人」っぽい自分を見ると、何とも言えない気持ちになることがある。
その度に、僕のやりたいことってなんだろーなーってぼんやりと考える。

今の仕事や休日のアメフトはやりたいことなのか。
もっと他に楽しいこととか、やりたいこととかあるんじゃないのかなって。
考えるんだけど、ジム行って寝たら大体忘れちゃう。笑

最近のテーマは“思い立ったら即行動”
理由は、
 ①やりたいことをすぐ忘れちゃうから
 ②やらずに後悔するのは嫌だから
そんなこんなで、弾丸広島旅行を計画&実行。
今回は「原爆ドーム」と「平和記念資料館」を見学して感じた事を綴っていきます。

2.平和記念資料館見学

👨‍🎓6年前

実は広島を訪れたのは今回が初めてじゃない。
高校2年生の頃に一度修学旅行で訪れたことがある。
その時は、班ごとの完全自由行動制だったけれど、僕の「平和記念資料館に行きたい」という提案は、班員による民主主義の結果、見事に却下されてしまいました笑
しかし今回は咎める人も居ないので、見学してみることにした。

👕資料について①

展示資料はどれも直接的かつ刺激的なものだった。中でも、特に心を動かされたものが2つある。
まず、被爆された方々が当時着ていた衣服だ。
1945年8月6日午前8時15分。多くの人が朝ごはんを食べたり、朝の支度をしたりしていたのだろう。日常を一瞬にして奪い去った原爆の悲惨さを物語るかのような、ボロボロの衣服が展示されていた。

衣服の展示

胸に名前の入った制服(?)は、未来ある子供たちの命が奪われてしまったことを想像させた。

当時11歳の少年の制服

📖資料について②

そして、家族に宛てた手紙や当時の惨状を書き記した日記などの「文字」も印象的だった。

お母さんから子供へ宛てた手紙
小学生の女の子の日記
白血病と闘う学生の日記

大好きな人が突然この世から居なくなる。あるいは、変わり果てた姿で発見されるというのはどんなに辛いことだろうか。行方不明になってしまった方々や、全身火傷をして誰だか判別もつかないような姿になってしまった方々が居たそうだ。

当時の惨状が記されている
火傷を負った人々が川に飛び込む様子

大好きな人や子供たちの生命が奪われてしまったことを想像するだけで、何とも形容し難い感情になった。
亡くなられた方々も、遺された方々も、両方辛いに違いない。

🌏海外の方々

海外からの観光客がとても多かった。体感7割くらい。
日本に数多く存在する観光地の中で、広島を訪れてくれたこと、そして、異国の歴史に関心を持ち、平和記念資料館に足を運んでくれたことに対して、日本人として感謝を伝えたい気持ちになった。

資料の前で足を止めて熱心に説明文を読む方、
スマホを片手に写真を撮影する方、
鼻を啜ったり目頭を抑えたりしながら見学している方の姿がとても印象的だった。

3.感想&余談

✍見学を終えて

17歳の男子高校生だった頃ではなく、今このタイミングで見学できて良かったと思う。
昨今の世界情勢から、世界中が「世界平和の重要性」について再度警鐘を鳴らしているタイミングかつ、
自分自身の生き方や、やりたいことについて考えていた矢先に、
世界平和と生命の尊さを訴える資料を見学できて、とても良い経験になった。
人との出会いに感謝して、繋がりを大切にしながら、常識や枠組みに囚われることなく、楽しい人生だった!と言えるような生き方を選択していきたい。

💭余談

脇本家のルーツは実は広島県竹原市。
曾祖父は当時、たまたま出張で博多へ行っていたそうで、そのお陰で今の僕が居るらしい。
ありきたりな話だけど、こんな駄文を最後まで読んでくれる優しい友達に出会えたのも、こうして楽しく旅行ができたのも、全部奇跡なんだなぁと実感したところで、東京さ帰ろうと思います。
最高の3日間でした!!
また来るね、広島🍁🎏


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?