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おねショタについて 【義姉】と【実姉】の違いとは

小説ばかり読んでいるとどうもドラマティックな出会いを求めてしまう。自分の人生に無理やりバックグラウンドをつけて語ろうとしてしまう。しかし多くの出会いは何ら華やかなものでもなく、どこで知ったのか、どう出会ったのか思い出そうとしても諦めてしまうくらい些細なきっかけで始まったものが自分の大きな趣味になることは往々にしてある。

私の場合、いつの間にか「おねショタ」にハマっていた。おねショタとは一般に年上女性と年下男の子(ショタ)のカップリングの名称である。
それの何に唆られるかは言うまでもないが、言うべきことでもあるので少しだけ私の思いを語らせてもらう。

実際おねショタはマイナーではなく、解釈次第では多くの作品に見出せるため自分が初めにどこで出会ったのか断定することは出来ない。しかし明確に、これはおねショタ作品だという認知の上で読んだ漫画を私のおねショタデビュー作だとすれば、それは漫画アプリGANMA!にて連載されていた『ぼっちゃまは今日もイジられる』となる。小学生の時に出会ったもので、勿論過激なエロ描写は無い。しかしこれによって私は「おねショタ」という言葉を知り、検索バーにこの言葉を加えると自分の体の奥が湧き上がることを実感していた。以降、有名なものだと『姉なるもの』などを読んでいたが、多くは無名なネット漫画を読んでいたため詳しい遍歴は語れない。
中学高校時代の多くはロリコン向けの作品に執心していたため、自分がおねショタ好きだったことは忘れていた。いや、最早そのようなものは一時の燃え上がりだったに過ぎないのかもしれないが、やがて高校も終わりに近づいたとき私は初めて音声作品に出会った。特にバイノーラルマイクを使用した“ASMR”と呼ばれるものだ。そこでまた私はおねショタに出会うことになり、自分の中で再びおねショタの熱が上がった。

ASMRと漫画の明確な違いは、その没頭感にある。どれだけ私が歳を取っても体が大きくなろうとも、ASMR作品を聞けば声を大にしてこう言える。
「私はショタ、いや、“ぼく”はショタだ。」

没頭感ゆえ、設定次第では私は義姉を持つことも出来た。義姉との出会いはぼくにとって大きな転換点だったと言える。
ここでまずは義姉の良さを話しておきたい。義姉という存在のエロさは、まず、まったく他人だった年上女性と一つ屋根の下で暮らす、という点が挙げられる。同じ家で暮らすとなると共用の物が増えたり、普段では見られない格好が見れたりする。
だがこれは別に義姉である必要は無い。
私の好きな漫画家である板倉梓さんの『すいもあまいも』は憧れの先輩と突然同居することになる恋愛漫画だ。

板倉梓『すいもあまいも』

主人公(男)のキャラデザが『フリクリ』のナオ太のようなショタっぽさがあり、滑らかなおねショタを楽しめる。これは義姉ではなくただの居候だが、先に挙げた良さを含んでいる。なので「一つ屋根の下に住む」ことは義姉特有の良さとは言えない。

義姉“特有”の良さを考えるにあたって初めに考えたいのは、姉という存在だ。
私が中学生であれば姉は同じ学校の先輩であったり、私が大学受験をしている時に姉は就職活動をしていてスーツ姿で帰ってきたり、上京してたまに帰ってくる姉の変わった髪型や化粧に距離を感じたり、姉というのは、常に私の人生の先にいる。ちょっとだけ大人な存在。ぼくよりちょっとだけ大人の世界を知っている存在。そんな“年上女性”と同じ家で暮らしていると言えば聞こえはいい。だが、姉がいる人なら分かると思うが別にシスコンだろうが実の姉に欲情などはしない。
私の話は、欲情するかしないか、そこだけが問題である。そして、「そこにいる」実姉に、実際ドキドキしたことは無い。シチュエーションは揃っているのに欲情することは出来ない。(しかしこれは後で話すが、「そこにいない」実姉に対しては私は極度のシスコンと言える)
シチュエーションは揃っているのに何か一つだけ物足りない、そんな状況を変えてくれるカードが「義姉」である。

義姉は、姉ではない。
これは、実姉をわざわざ“実”姉と呼んでいるのは義姉という存在のせいだが、姉というと本来は実姉を指すものであるから義姉を姉と呼ぶには語弊がある、といっただけの話ではない。義姉はそもそも「姉」ではないのだ。
先ほど話した、ちょっとだけ私より大人な「姉」を思い出して欲しい。同じ学校の先輩の姉、スーツで家に帰ってくる姉、東京から帰ってくる姉、これらには総じて「安心感」がある。まさに「実家のような安心感」という言葉があるが、それである。生まれた時から側にいる姉に対する安心感というものがあるのだ。
そうすれば、話の流れとしては、「義姉にその安心感はあるか?」という疑問が出てくる。答えはノーだ。ある日突然同じ家で暮らすことになった血のつながっていない義姉には、一滴の不安が混ざる。透明な水に墨汁を落としたときのように、一滴の不安は最終的に全体に広がる歪なグレーとなる。義姉は、歪で、不安定で、支配的な「黒」だ。

ここで私はようやく義姉特有の良さを語ることが出来る。
それは、外面は姉弟なのに、その中身は一方的な支配関係があるところだ。弟の手綱は、初めて挨拶したその日からずっと姉の手に握られている。

まとめると、実姉は安心感を持ち、義姉は支配感を持っているということだ。
両方に良さはあるものの、性質は全く異なる。
両方に「姉」とついているが、以上のことから私は義姉は姉ではないと思っている。スティーブ・ジョブズが、iPhoneは小型化したパソコンのようなものであるにも関わらずそれを電話“phone”として一般受けを狙ったかのように、義姉は、姉でないにも関わらず、姉のポジションに立っている。


ところで実姉に対しても一定のニーズがあるが、実姉の話をすると、実際に実姉がいる人はこんなものを見ないと言う人がいる。現実はこんなことにならないから、というのが理由らしいが私はそれが理解出来ない。
実姉、もとい近親相姦がまとうのは安心感そのものであり、年上に対する安心感こそが私の思うおねショタの極致だからだ。安心感を求めるのは、人が孤独だからだ。ゆえに孤独な人間は、すべからくおねショタを好むのだ。それも、義姉ではなく実姉である。安心感は目に見えるものではない。家族であれば、行動で分かりやすく表れるものでもない。安心感は「そこにはない」のだ。実姉それ自体ではなく、実姉に私が内包されているという事実を特筆すべきである。


義姉か実姉か、どちらが好きかなどの話は見当違いだ。求めているのもが違うから。もしあなたが孤独に苛まれているのなら、ぜひ没頭体験により弟になってみて欲しい。

ぼくからは以上だ。

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