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心の凪(なぎ)


私は人生の半分くらいを「うつ」と一緒に生きている。

「うつ」がやってきた時、私はそうかな?と思って家族に打ち明けたが、家族の反応はというと、「病院になんて行ったら薬漬けにされて中毒になってしまう。何か別の解決策があるはずだ。」というもので、当時実際にどんな具体的な方策が取られたかまるで思い出せないが、「そんなの根性論じゃん」と感じたことだけは覚えている。(あるいは何もなされなかったのかもしれない。)

それからは、みぞおちとへその間の奥の、ちょうどなんらかの臓物があるあたりに、脈絡のない不安と卑屈の塊を24時間365日抱えて暮らしている。
それは時に大きくなったり小さくなったりするけれど、常時拳大くらいはあって、鉛のように重い。
そしてそこからじわりじわりと謎の不安物質が溶け出して、肉を蝕み、痛んで心拍数を上げるので、私はいかに自分を誤魔化し平静を装うか(平静を装えていると自分に思い込ませるか)に努めてきた。

学生の頃、私はスクールカーストや進路のことでよく悩んでいた。
その中で、小説や漫画、アニメ、その他の動画や音楽など物語や創作の世界に入り込んでいる時、人間関係のしがらみと自分の人生から切り離されてその悩みの辛い気持ちを忘れることができた。

その後、大学を中退して、フリーターになった。
大学に通う辛さ(今思うと適応障害のようなものだったと思う)から解放されたものの、身近な家族や友人がみんな大学卒だったこともあり、将来の仕事や収入への不安が終わりのない津波の壁のように押し寄せた。
ちょっとしたモヤモヤは、ちょっとコスメを集めたり洋服を買ったりするとすっきりしたが、お金がない時は、展望台や博物館に行った。
展望台に登ると、人や街が小さく見えて、自分の悩みも人生もすごく些細なことで、どうあがいても無意味のように思えて、みぞおちのあたりに鎮座していたうつの塊が消えて、そこにぼかんと空洞があいたまま帰路についていた。
博物館へ行く時は、隕石や鉱物の展示室へ行く。隕石は遥か宇宙の何処かから旅をしてきて、地球へ落ちる時へ焼け焦げて、ぶつかって、拾われて、そんな時間と空間の旅の結果として目の前にある。他の鉱物にしたってそうだ。地面の下で、いろんな偶然が重なって、様々な圧力や温度によって長い時間をかけて目の前にある結晶(博物館にあるものだと、特に大きなもの)へ結実している。そんな長い長い年月をかけてできた鉱物の色彩に、輝きに、角度によって変わる表情の違いに、歪みに吸い込まれていると、自分のたった数十年の人生の中の、20年ぽっちの、自分の半径数メートルの中で起きた問題なんて、宇宙の中で起きたケシつぶひとつにもならないような誤差にしか思われず、やはり私のみぞおちにのさばっていたうつの塊はメルトダウンして居場所を追われ、腹部に大きな風穴が開く心地がするのである。

あいた穴は、無だ。
感情も思考もない。自分の人格など人生など、あるいは周囲の人間の問題など、些末なことだったのだという悟り、あるいは諦め、決着。
問題は何一つ解決しないが、それまで荒れ狂っていた心に突然の凪が訪れる。
しけた海も、人工衛星から見ればただただ青く美しく見えるのに似ているかもしれない。

私にとって、「うつ」は痛むものだ。
鉛のように重くのしかかり、じくじくと痛むのだ。
はっきりと「痛い」のに、「心の病は気のせい」という対応をされることのなんと多いことか。
身体が痛む時にはすぐに鎮痛剤を飲むのに、心が痛んだ時に積極的に治療する人は多くない。

私がその痛みと、不理解な環境の狭間で編み出したのがこの「凪」だ。
「凪」は何もうまないし、何も解決しないけれど、痛みも生まない。
ほんのひと時、痛みを忘れることができる。

私にとってゆたかさとは、その人の心と体の健康な状態を保ち、自身ののぞむ活動ができていることだと思っているのだが、私がそのゆたかさを手にする日はまだ遠い。

#ゆたかさって何だろう

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