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もう食べられない味

 明治から昭和にかけて活躍した小説家、小島政二郎の随筆「食いしん坊」を何度か再読している。芥川龍之介や泉鏡花、谷崎潤一郎といった文豪たちとの交友が描かれ、特に彼らとの会話や食べ物の好みなどを書いていて非常に面白いのだが、その中でゾクッとしたものがあった。


大阪、京都は知らないが、東京は大地震でガクンとお菓子がまずくなり、今度の戦争で、また、ガクンとまずくなった

「食いしん坊」


 私はこの記述を読んで震えたね。
 一応注釈しておくと、「大地震」とは関東大震災のことで、「今度の戦争」とは太平洋戦争のことだ。
 この小島政二郎の嘆きはとんでもない。「明治に生まれた者でなければ、本当のお菓子の味は分からない」「現代人はまずい菓子ばかり食べている」と言っていると言っても過言ではなかろう。自分が相手より優位にあるとアピールする行為を「マウントをとる」というが、まさかの明治生まれマウントである。『美味しんぼ』の海原雄山は、菓子対決の回で菓子の歴史について高説をたれたが、その彼もこの話をされたらびっくりするだろうか?
 関東大震災前に食べられていた菓子を、もう我々は食べる事が出来ない。いや、そもそもその味すらも分からないのである。朝ドラ「カムカムエブリバディ」で、前半の主人公が大切にしていた「あずき」ですら小島政二郎にとっては「まずい」ものなのかもしれない(舞台が岡山だからなんともいえないが)。


 似たような話がある。

 芥川龍之介の有名な小説「芋粥」で、主人公は甘葛の汁で山芋を煮た芋粥に『異常な執着』をもっており、『一生に一度でいいから腹いっぱい食べたい』と思うのだが、これが芥川によって書かれた時はもう「甘葛」は幻の甘味となっていた。前述の『食いしん坊』の中で、芥川龍之介は平安時代の人々の暮らしぶりについて小島と話す。我々は砂糖がなく甘葛で甘味を取る当時の生活に耐えられるのかと。そして「当時の天子様より我々の方が良いものを食べているのは確かだ」と結論付けるのだが、この段階でも「食べたことのないもの・もう食べられないもの」への憧れはあったのだ。

 現代を生きる我々に身近な「食べたことのないもの・もう食べられないもの」だと、まず牛のレバーの生食があげられるだろうか。某焼き肉チェーン店でレバーの生食によるO157の集団食中毒が発生したことをきっかけに、2012年に法改正が行われ、牛のレバーを生食用として販売または提供することが禁止となったその後、2015年には豚の肉・レバー等内臓も生食禁止となる。焼肉屋や焼鳥屋で目にした牛のレバ刺しは、もう法的に食べられない。


 それと、スギヒラタケ。私は新潟県の田舎で育ったが、祖母の友人が良く山に入ってスギヒラタケをとってはおすそわけしてくれたので、よく食べていた。それが2004年、唐突に「スギヒラタケが原因で急性脳症」と大きく報道され、農林水産省はスギヒラタケを摂取しないよう呼びかけている。このブログを書いている現在でも原因はよくわかっていないらしいが、とにかく、私にとって「子どもの頃の思い出」であったスギヒラタケもやっぱり法的に食べられなくなってしまった。
 生のレバーはともかく、スギヒラタケが食べられなくて悲しいかと言われるとちょっと疑問ではあるが…。


 まあとにかく、食文化は時代が進むにつれて大きく変わっており、食べられなくなったものに対する憧れは人によって違う。と、書いて、無理やりまとめて終わり。


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