東京散歩 大勝利のその先に

元旦から一夜明けた1月2日、世間の皆さまはこの1日をどのように過ごされているのだろうか。1日とおんなじように、親戚の家などを訪ってみたり初詣にでも出かけたり、はたまた家でのんびりしてみたり。そんな風に過ごしておられる方が多いのだと思う。

僕の場合、ここ数年は三が日でも普通に仕事に出かけて苦しい労働に喘いでいたため「正月にどう過ごそう…?」なんて考えることすらなかった。苦役の最中、楽しそうに笑顔で往来を闊歩する人々を見て憎しみを募らせているだけだった。それがどういうことか、今年はお正月に休暇を取っていいこととなった。どうせ今年の正月も奴隷じみた労働に従事させられる、とイヤな覚悟を決めていたのに急に休みだと言われても少し困惑してしまう。せっかく決めた覚悟の行き所もない。かといって「イヤです! 苦役をさせてください!」と懇願するのも変な話だしそこまで気が狂った人間でもないので休みは休みとしてきちんと取らせてもらうこととなった。
となると正月休みの過ごし方というのを考えなくてはいけない。食っちゃ寝を繰り返しつつその合間にネトフリで韓国ドラマとかを観てダラダラ過ごす、というのが基本方針にはなるが、せっかくの連休である。それだけで費消してしまうのはいかにももったいない。

今の職に就く前、1月2日には必ずと言っていいほど訪れる場所があった。1日や3日はダラダラするものの2日は必ず出かける、それが毎年のしきたりであった。
どこに行っていたのかというと、「信濃町」という場所だ。言わずもがな、創価学会関連の施設が立ち並ぶあそこである。1月2日は創価学会にとって特別な日だ。いや、特別な日「だった」と言った方がいいかもしれない。この日は故池田大作先生のお誕生日に当たる日だったのだ。1月2日にはこの特別な日を信濃町で過ごそうと全国から信徒が訪れるのが毎年のことだった。そこにノコノコと顔を出すのが僕の恒例の行事となっていた。

ここまで読まれた方は
「あれ、お前は創価学会の人なん?」
とお思いになるかもしれない。それはそうだ。信徒でもないのに大作先生の誕生日を祝いに行くわけがない。だが僕は信徒ではない。単純に興味本位と、「なんか人がいっぱい集まってるぞ」という純粋な野次馬根性で毎年信濃町に通っている。こんなにくだらない理由でも毎年行ってると恐ろしいことになんだかんだで習慣のようになってしまうのだ。そうして僕は、1月2日になるとどんなに布団でグズグズしていたくても「いや、信濃町に行かないと!」と謎の義務感に駆られて家を飛び出す男になってしまった。
ちなみに創価学会の教義や教えの中身はほとんど知らない。毎年のように行くんだから少しくらい勉強してみよう、と『人間革命』にチャレンジしたこともあった。だがダメだった。到底読めない。作家の井上ひさしさんも同様のチャレンジをし、そして全て読みきるという偉業を成し遂げたのだが感想として仰っていたのは「あれは役所の広報と同じ」という極めて簡潔でめちゃくちゃ頷ける一言だった。そういう類の面白くなさがある書籍なのだ。生半可な気持ちで勉強をしようと思ってうまくいくものではない。

だが今年の1月2日は昨年までとは違う。ご存知の通り、誕生日を祝うべき先生は昨年の11月15日に亡くなられてしまっている。
だからいくら休みだと行っても信濃町に行く用事はない。ダラダラゴロゴロと家に引きこもっていてもいい。そうして年末に買いこんだお菓子をたっぷり食べてブクブクと太ればいい。そう思っていた。
しかしそう思いながらも習慣というのは恐ろしいもの、気づくと僕は家を飛び出していた。
「俺、何してんだろ?」
と思いはした。行く意味もない。わざわざ温かい布団にくるまる幸せをうっちゃる理由もない。そもそも信徒ですらない。なのになぜ僕は信濃町に向かっているのか。自分でもよくわからない。ただ頭にあったのは「信濃町に行かなくちゃ!」という謎の使命感だけだった。
僕は大作先生の誕生日を祝いに行くんだ。


家から電車を乗り継ぎ約1時間。
いつもなら信濃町駅に着けば大勢の場客がここで下車していたものだ。だが今年は違う。降りる乗客はまばらだ。
改札を通り、外に出るとそこはすぐにいわゆる「創価村」が広がっている。以前ならこの日はちょっとした観光地ばりに人々がひしめきあっていたものだが、今年は全然そんなことはない。僕の知っている1月2日の信濃町とはまったく違う。創価村に向かって少し歩き始めるとそこにはなにやら新聞を配っている数名のグループがあった。
「聖教新聞でも配ってんのかな?」
と何気なく受け取ると、それはまさかの「顕正新聞」だった。顕正新聞を発行している顕正会は、日蓮正宗から派生した宗教団体である。もう少しいろいろ書きたいが普通に怖いので、創価とはものすごく仲の悪い団体だと書くに留めておく。
人もまばらとはいえ、いつもの信濃町と比べればやはり人は多い。そこで普通に活動をする顕正会。なかなかにドン引きさせられる。配られていた新聞にチラっと目を通すとデカデカと創価学会を糾弾する文言が載っている。さすがに「やべえの受け取っちまった…」と狼狽えていると、スーツ姿の男性が「お困りでしたら処分します」と話しかけてきた。学会の職員の人だ。「お願いします」と顕正新聞を手渡す。地獄に仏、とはこのことだ。あんまりそういうイメージはないが、創価学会も仏教なのだ。
「信濃町あたりで撮影とかしてると職員が出てきて怒られる」という話がまことしやかにネット上では語られている。たしかにこの街にはそこら中に創価の職員さんがいるが、僕は撮影をしていても何をしていても彼らに注意をされたことは一度もない。そういう嘘かホントかわからない話で嫌われがちな職員さんだが、この時ばかりは助けられた。さすがに顕正新聞を持ってこの辺を歩き回りたくはない。
どこを歩いてもやはり人は少ない。いくら亡くなったにしても、前会長である。もう少しおめでたいムードがあっても良かった、と思う。信徒でもないただの野次馬の分際で少し寂しい気持ちになってしまう。人がぞろぞろと入っていく建物はあったが「誕生日おめでとう!」みたいなノリではなく、そこでやっていたのは単純に新年を祝う催しだったように思う(信徒のみ入場可ってことだったから中に入れなかった)。

創価学会ではよく「大勝利」というフレーズが使われていた。いや、今も使われている。
しかし、そんな大勝利な先生も亡くなってしまえばその誕生日だった日に顕正会の狼藉も跋扈するし、集まる人も目に見えて少なくなる。大勝利のその先にあるのは、そんな心淋しい光景だった。
特に見て回るような場所もない。早々に創価村を後にして駅前にある喫煙所へと向かう。そうして一服している間に小雨までパラついてきた。慌ただしくタバコを消すと僕は家路につくべく駅の改札へと向かっていった。

もう来年からは1月2日にここに来ることもないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?