美化活動に従事する

僕が20代前半だった頃の話だからもう10年以上前の話だ。僕はその時、神楽坂にある印刷会社に勤務していた。学歴もなければ取り立てて資格があるわけでもない。印刷業界に関する知識だって何にもない。そんな僕でもどうにかこうにかこの会社にもぐりこめたのはひとえに年齢が若かったからだろう。毎日毎日、何にもわからないながらジタバタと走り回り、おっかなびっくり他の人がやってる仕事を横目で見て真似したりして仕事は少しずつだが覚えていった。20代前半というのはこういうことができる年齢なのだ。
そんなこんなで何年かはこの会社で勤めた。辞めるちょっと前なんかはそれなりの仕事も任され、それなりに頑張ってこなしていた。僭越ながら、信頼やら信用なんてものも周囲から得ていたように思うし期待もされていたと自負している。
先述の通り、僕には知識もなかったし経験もなかった。でも若さだけはあった。となるとアピールポイントは元気さだけだ。人の嫌がる力仕事や汚れ仕事となると僕は率先して引き受けていた。ここにしか自分が必要とされる場所はない、そんなちょっと屈折した気持ちもあった。今なら少しわかるが、こういうタイプは集団に1人いると便利で重宝する。どんなにキツい仕事でこき使っても文句も言わない。そんな何でも屋じみたポジションを獲得したのが僕だったのだ。
その会社に1人のおじいちゃんがいた。おじいちゃんといっても50代中盤、まだ定年には間がある人だ。名前はとりあえずTさんとでもしておく。
Tさんは外見的には歳より老けて見える人で、そのいつも短く丁寧にセットされた白髪頭がよりTさんをおじいちゃん然とした風貌にさせていた。話し方も穏やかで、何かを強く主張することはなく自分の仕事を黙ってこなす、そんな人だった。
このTさんは事務所の奥の方でいつも静かにパソコンをいじり、昼になればおっとりと鞄からお弁当を取り出してゆっくりゆっくり食べ、午後は時折うつらうつらしながらも堅実に働き、定時になればニコニコ帰っていった。誰かと揉めたりすることもないし、歳下の人間に威張るようなこともなかった。
いつも会社内をバタバタと走り回っていた僕ははじめTさんの存在すら認識していなかった。温度差がありすぎるのだ。それに仕事内容も部署もまるで違っていた。顔や名前がどうにか一致する段になっても、特に会話を交わしたりすることもなかった。同じ会社とはいえ、完全に無縁の人だったのだ。

そんなTさんにある日、異動事例が出された。僕の下に付けという内容だった。
Tさんは50代、対する僕は20代前半である。倍の差がついている。もちろん会社でのキャリアだって全然違う。僕は入社して数年のペーペー、Tさんは大ベテランである。
どうもTさんは社内で、というか二代目社長からかなり疎まれていたらしい。その気持ちもわからなくはない。なにせ、繁忙期で周りの社員がどんなに忙しそうにしていてもTさんは慌てず騒がず悠然と日々を送っていた。終電まで残業するのが普通、みたいな空気が蔓延する社内で6時にタイムカードを切っていた。そんな風でありながら、若手社員に何かを教えたりするわけでもなければ頼られているわけでもない。ただ空気のように目立たずにいる存在、その目立たなさが故に目立ちに目立って目をつけられてしまったのだろう。そんな経緯があっての僕の下への異動辞令だった。要は、会社はTさんを退職に追い込もうとしたのだ。その追い出し役として僕が起用された、そんな形だった。

辞令が出されて実際に僕の働いていた部署にTさんが出勤してきた日、困り果てたのは僕である。僕のやってた仕事はだいたい力仕事や機械いじりだった。作業着を着て安全靴を履いての仕事だった。Tさんは作業着なんて持ってやしない。普通にいつも通りスーツ姿で出勤してきた。
とりあえず通り一遍の仕事内容を説明してみる。Tさんはニコニコしながら僕の話を聞いている。わけのわからない辞令に対して不満を見せるでもない。なんだかこちらまで力が抜けていくようだ。少しほのぼのした気分にはなってしまったが、ほのぼのしていてはなかなか力仕事はできない。それにいつだって納期に追われている。脱力している暇はないのだ。
「じゃあ、ちょっとやってみましょうか」
緩みかけた気を引き締めてTさんにそう声をかけ、とりあえず簡単そうな仕事を任せていつも通りの仕事に取りかかった。

数日後、Tさんの仕事は社内の掃除だけになっていた。
やっぱりダメだった。土台、無理な話だったのだ。まったく畑違いで、性格的にもいかにも向いてなさそうな仕事をTさんはまるで覚えられなかった。数日でそれはわかった。それに正直言って、何かを誰かに教える余裕が僕にはなかった。連日の残業、それでも迫ってくる納期、教えたところでものになりそうな気もしない人のために注ぎ込む労力などなかった。
毎日毎日、Tさんは出勤してからあちこちを掃除した。掃いて、拭いて、ゴミを捨てて、掃いて、拭いて、ゴミを捨てて…。聞けばTさんは大学を出てから数十年この会社に勤めているという。ほぼ創業メンバーと言っていい人なのだ。当時の社長の父親である、初代社長の頃から務めてきたいわば重臣なのだ。前に出て我を張るような性格ではなくいつもおっとりとしていたからだろう、何の肩書きもない社員ではあったが、ずっと頑張ってきた人なのだ。
その人が今、一生懸命に窓を拭いている。会社の前の道路を掃いている。
かつて同じ部署にいた人たちはそんなTさんの姿を見ても特に何も言わない。何も言わなくても思うところはあるだろう。二代目社長と同様にTさんを疎ましく思ってた人もいるかもしれない。だとしても、モップを手にトイレに入っていったTさんを見て何も感じないはずはない。
当のTさんはいつもニコニコしていた。穏やかで落ち着いていて、その仕事ぶりは丁寧だった。だけどもそのニコニコ笑顔の下でどんなことを考えていたかはわからない。
数ヶ月して、Tさんは退職をしていった。最後の出勤の日の朝、Tさんがした挨拶は今でもよく覚えている。
「今まで長い間ありがとうございました。あと…どうもすいませんでした!!」
何の謝罪だったんだろう。特に花束なんかを渡すこともなかった。まばらな拍手が起きてすぐにみんな日常業務へ取りかかった。Tさんはその日も社内を隅々まで掃除し、定時に帰っていった。
今までTさんのことなんかずっと忘れていた。連絡も取ってないし、そもそも連絡先を知らない。Tさんが辞めて数ヶ月後に僕もこの会社を辞めた。

先日、傍聴した裁判が記憶の奥底にあったTさんの記憶を呼び覚ました。それは過失運転傷害の裁判で、タンクローリーの運転手が赤信号を無視して原付バイクに衝突したという内容の事件だった。原付に乗っていた被害者は靭帯損傷で全治4ヶ月の診断を受けた。
被告人は53歳の男性、少し色黒で小柄な彼は少しぼんやりしたような相貌で、はっきり言ってしまえば鈍重そうな印象を覚えるような人だった。
富山県で出生、地元の工業高校を卒業後に上京した彼はドライバーの職に就いた。それから数十年、結婚し2人の子どもを育て、地味ながらも堅実に生きてきた。
「ちゃんと前を見てなかった」
「考え事をしてて(運転に)集中してなかった」
「配車状況とかいろいろ考えてて」
公訴事実は全面的に認め、事故に至ったことに関して言い訳らしい言い訳もしなかった。
今後のことを訊かれた際には
「今まで以上に意識を集中させる」
「とにかく集中する。運転中は他のことは一切考えない」
と口にしていた。
なんとなく集中できない日、誰にでもあるだろう。それはわかる。とはいえ、裁判の場である。だいたいこの罪名で起訴された人はもう少し気の利いた話をする。集中できなかったのにはこれこれこういう理由があってだから云々でどうのこうの。そんなことを彼はしなかった。ただ「集中してなかった」、それを繰り返すばかりだった。
誠実な人ではあるのだと思う。その誠実さはきっと彼の美徳でもある。でもその誠実さも美徳さも、生きていく上ではきっと役に立たないし理解もされない。それはただ軽んじられ疎まれ踏みにじられる。
なんとなく宮沢賢治の一節を思い出す。ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ…宮沢賢治の切なる願いは理解されることはない。ワカンナイ、いつでもそうやって切り捨てられるだけだ。
彼は事故後、出勤停止、そして車両への乗務停止となった。程なくしてまたドライバーとして復帰するものの、そのすぐ後に免許停止の行政処分がくだった。
高校を出てずっとドライバーだけをやってきた。こんな人が何か他の仕事を覚えられるほど器用なはずがない。事務仕事なんかも見るからに出来そうにない。でも彼は毎日、会社に出社した。会社で彼がしていた仕事、それは「会社内の整理、掃除、美化活動」だそうだ。
運転ができなかった期間は数ヶ月に及ぶ。その間、彼は来る日も来る日も「会社内の整理、掃除、美化活動」をやり続けた。
彼は毎朝、どんな気持ちで出勤していたのだろう。会社の窓を拭きながら、何を考えていたのだろう。周囲にいる同僚たちからの視線に何を感じていただろう。


社会から求められる何らかの能力を持っていない人、というのはいる。何を隠そう、胸を張って言うことでもないが僕もそんな人の中の1人だ。
どうも世間とチグハグで、かといって生き方や人間性なんてそう簡単に軌道修正できるものでもない。チグハグなまま、ズレながら、見下されながら…それでも生きていかなくてはいけない。人から見ればその姿はさぞかし滑稽に見えるだろう。人から嗤われてもこちらは曖昧な笑みを浮かべて卑屈に受け流すくらいのことしかできない。他人の目からはどんなに惨めな喜劇に見えたとしても、誰もが舞台の主役として立ち続ける他はないのだ。その胸に宿る哀しみがわからない人は人生の意味を何1つとして理解できないままその浅薄な生涯を終えるに違いない。


今頃Tさんは何をしているのだろう。もう70歳くらいになっているはずだ。会社を去る直前、お孫さんが産まれたという話を聞いた。それを語るTさんはやっぱりニコニコしていた。Tさんのお孫さんは優しい人に育つような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?