わけいってもわけいっても…

先日、なんとなく書店に立ち寄って新刊本コーナーなどを歩いていた時のことだ。「良さそうなのは全然ねーな」とガッカリ半分、出費を抑えられそうなことに安堵したのが半分、という曖昧な感じでぶらぶら歩いていた。どんな本が出ているか事前に何も調べていない、純然たる暇つぶしでの本屋行脚だったのだ。
私は一応は社会人っぽい顔をして生きてはいるが、その実は月に1冊の新刊本も買うのはためらわれるような経済状況で生きている。なんなら学生時代の方が本や何かにお金をかけていた気がする。本を買う、なんてのはもっぱら古書店での行動だと認識していて、普通の書店で新刊本を買うなんてことはそうそう多くはない。これは多分、私だけの話でもなくて、本にお金と時間をかけられる余裕を失ってしまった人って世の中にずいぶんたくさんいるのだと思う。「出版不況」だなんて数年前から言われているがそれは当たり前の話で、もう書籍を購入するということは贅沢の一種になってしまった。
それでも私はどうにかして本は読みたいタイプの人間なので、爪に火を灯すようにして多少の書籍代は捻出できるように頑張っている。とはいえ、新刊本を買うにはかなり躊躇うし勇気を必要とする。文庫ですら1000円前後だし、単行本は2000円を超えてくる。こんなものを欲望にまかせて簡単に買っていってしまえば私のちんけな生活など瞬く間に破綻する。だから本屋を覗く際には財布の紐はキツくキツく締めた上で臨むのを信条としていた。

本屋に入店して5分後、さっきまで「良さそうなのはねーな」と嘯いていた私は1冊の本をかたく握りしめてレジに並んでいた。
信条も何もかもを吹き飛ばす1冊を見つけてしまったからである。それは町田康さんの『入門 山頭火』だった。
種田山頭火という人については、自由律俳句で有名な人であることや、その凄まじい来歴についてなど断片的には知っていた。その作品のいくつかも知っていた。私をひどく惹きつける強力な何かを持っている人、というイメージは昔から抱いていた。
それなのにそんなに深く種田山頭火について調べたことも学んだこともなかった。単にきっかけがなかったからなのだが、そのきっかけが考えられる限り最高の形で書店に並んでいたのだ。「町田康」で「山頭火」である。これはもう買うしかない。生活がどうとか財布の紐がどうとか、そんなものは関係がない。そんな理屈ではないのだ。買う。とにかく買う。そして読む。それしか考えられない状況に陥った私はなりふり構わずその本を手に取るに至ったのだ。

この買ってきた『入門 山頭火』、家に帰ってすぐに虚心坦懐に読み耽るのもいいかな、と思っていた。だがせっかくの新刊本、それも自分にとって刺さりに刺さりまくる本であることは確定している当たり本である。これは思う存分に味わいたい。そのためにはまず、今まで気にとめながらも関わってこなかった種田山頭火という人とその作品に耽溺しまくる工程を踏まえてから取りかかる方が良いような予感がした。ということで、とりあえず1日図書館にこもって種田山頭火の句集、及び解説本などの類を読んでおこう、そう思って私は日比谷図書館に出向き種田山頭火本を読みまくってきたのだ。

そして今、私は頭を抱えている。
図書館で触れた山頭火作品がやはり良すぎたのだ。山頭火にハマりまくっている。そして完全に深みにハマりつつある。
山頭火で深みにハマる。これが意味することは1つ。もはや山頭火を読むだけでは収まらなくなってきてしまっているのだ。
具体的に言えば、「おんなじ自由律俳句だし影響もたくさん受けてるし、尾崎放哉も読まなくちゃダメかな」となるのは第一段階である。さらには「いや同時代の他の人にも影響受けてるし、とりあえず正岡子規あたりから齧って行かないとな」と拡がってしまう。さらには「これ…松尾芭蕉じゃん」みたいな作品もある。芭蕉もいかなければならない。もっと遡って『方丈記』の香りもなんか漂っている気がする。あの時代の古典など今の私が読めるだろうか…まあ無理だからうまいこと現代語訳のものを探すにしてもやはり方丈記には取り組まなければならない。調べていくと「葛西善蔵」やら「嘉村磯多」の作品を若い頃の山頭火が傾倒していた、なんて記述にも出会ってしまった。句集を読んですぐの段階でなんとなくそんな予感はしていたがはっきり書かれてしまえばそれはもうやはり読んでおかなくてはいけない。そうして明治大正から昭和にかかる時代の私小説群なんかに取り組めば、ちょうど新潮文庫で出てしまっている「藤澤清造」にも寄り道しないといけなくなるだろうし(根津権現裏は読んだけどあんまりピンとこなかった)、そこまで行くならそれはもう現代まで、つまり車谷長吉さんやら西村賢太さんまで走り切るしかなくなる。
この調子でいくと…私はいったいいつになったら『入門 山頭火』を読むことができるのだろうか。
読もうとしているものはすべて青空文庫で解決するから足も金も使わなくて済む。済むのだが、満足のいく地点まで自分が到達できる日が来る気がまったくしないのだ。

私は大学でも近代文学なんかをやってた人間である。それも山頭火ではなく「夏目漱石」という、メジャーもメジャーな人間と戦っていた。その時もまったく同じことは起きていた。学べば学ぶほどに学ぶ範囲が拡がっていってしまうのだ。
その時もはじめは「夏目漱石の書いたもんと、このへんの解説本3冊くらい読みゃいいだろ」と軽い気持ちで取り組んでいた。それが気づけばわけのわからない文学の海で漂流していた。なんとなく記憶にあるが「夏目漱石について学ぶんだ!」なんて粋がっていたのに丸一年くらい夏目漱石の書いた文章をまったく読んでいない期間さえあった。
同じ大学の友人で「与謝野晶子に興味があって」と与謝野晶子海に漕ぎ出していったやつがいた。どんな経路でそこに行き着いたのかはまったくわからないが、数ヶ月後そいつは延々ベートーヴェンを聴きまくっていた。これもちゃんと与謝野晶子に関連があるのだと話していたし、聞けばなんとなくわからなくはない感じに、だけどもさっぱり理解できないような筋は通っていた。

大学も辞めてからずいぶん経つというのに、またこんな経験をする羽目になるとは思っていなかった。
こういうのをネットスラングで「沼」と言うのだろう。まさに沼だ。もがけばもがくほどに溺れていく。そしてその溺れている状況に快楽を覚えてしまっている自分がたしかにいる。これは抜け出せる気はまったくしない。そもそも抜け出そうとさえ思っていない。

そういうわけで『入門 山頭火』に入門できる日がいつ来るのか、ていうかそんな日が来るのかどうか、まったく見通せない状況になっている。
「…だったら単行本じゃなくて文庫で出るまで待ってても良かったんじゃね?」
という想いさえ抱きはじめている。なんならその文庫がブックオフで100円になるまで待っていても問題なかった気がする。
でもこういう本はやっぱり買ってしまうのである。よくよく考えてみると、新刊書店で衝動買いした本をすぐに読むということはあまりなくて、ほとんどの本はしばらく積んで寝かせてから読んでいる。下手をしたら寝かせっぱなしのものもある。それでも本を読むのが好きな人間はやっぱり買っちゃうのだ。

つまり何が言いたいかと言えば、お金がない。恵んでほしい。いつもの話だ。
私はついつい金もないのに本を買ってしまうのです。当然のことながら後で困るわけですけど、わかっていてもやってしまうのです。今、困ってます。反省はしてません。皆さまがお金を恵んでくれたらいいと思っています。どうせ誰か恵んでくれるんだろ、みたいな甘えきったことも考えてます。どうかお金を恵んでください。下のサポートというところからお金を恵んでください。

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