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閑谷法師『閑谷集』

1.『閑谷集』について


・平安時代末期~鎌倉時代初期(1181~1207)の私家集
・成立年:承元年間(1207~1211)?
(1198年4月に今までの人生を振り返りながら書き始める。
 確認できる最も古い歌は1181年、最も新しい歌は1207年に詠まれた。)
・収録歌数は248首(『新編国歌大観』)
・作者:姓名不詳(閑谷法師?)

■『新編国歌大観』(第7巻 私家集編Ⅲ 解題)『閑谷集』
 作者は未詳ながら、法体の歌人で、父は京に在り、作者も大原に住んだことがあるが、養和、寿永の頃には加賀、但馬におり、文治元年(1185)以後は駿河国「おほはた」に住んだらしい。建久五年(1194)父が病没した時を含めて何度か上京もしている。元久元年(1204)10月北条政範の死を悼む歌一連、承元元年(1207)同時政発願の堂供養に関する歌などから北条一族との関係が注目される一方、歌会歌らしきものは存するものの中央歌壇との接触は確認し得ない。

2.閑谷法師とは?


 出家し、1185年8月から駿河国大畑(静岡県裾野市大畑。『鎌倉殿の13人』のロケ地・不二聖心女子学院の東隣)の草庵(後の大幡寺)に住む僧侶。姓名不詳であるが、『閑谷集』の写本(ノートルダム清心女子大学附属図書館の仲田顕忠(1801-1860。江戸時代後期の歌人)自筆本)に『閑谷法師集』があるため、便宜上、「閑谷法師」と呼ばれている。「釈閑谷」とも。

・仲田顕忠筆『閑谷法師集』(ノートルダム清心女子大学附属図書館)
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100209674

・宮居及善「『閑谷集』の作者について」1977
・加藤秀行「「閑谷集」作者とその周辺」1984
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I2706620-00?ar=4e1f
・浅見和彦「『閑谷集』の作者」1997
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002627662.html
https://www.iwanami.co.jp/book/b265692.html

■『人物に見る裾野の歴史』「閑谷法師(かんこくほっし)」
 12世紀後半─世紀前半。僧、歌人。私家集「閖谷集」の写本に「閑谷法
師集」があるため、ここでは閑谷法師と仮称したが、姓名不詳。その父(生年不詳─1194)は在京しており、自身も京都大原に住む。北条時政・政範父子の縁者とみられ、政範は「牧御方腹愛子」であることから(『吾妻鏡』)、駿河国大岡荘の牧宗親・大岡時親の縁者とも考えられる。
 1181(養和元)年2月ごろには加賀国に住み、同年10月但馬国に移住。ついで1185(文治元)年8月ごろより、駿河国大畑に草庵を営んでいる(『市史研究』12号─補4号)。裾野市大畑遺跡からは、経塚を含む平安・鎌倉時代の遺構・遺物が多数確認されており、同地では毎年9月25日に愛鷹の御祭りが行われたらしい(『同」12号─補12号)。また1202(建仁2)年は七庚申の年で、大畑に人々が集まって文殊講が行われ、夜を明かしている(『同』12号─補10号)。さらに駿河郡内の日吉新宮、岡宮などにもしばしば参詣しており(『同』12号─補8、12号)、1204(元久元)年には、11月5日に16歳で天折した北条政範のために、浮島ヶ原に八万塔を建てている(『同』12号─補11号)。
 なお「閑谷集」作者が居住した草庵は、そのご大幡寺に発展したとみられる。1373(応安6)年10月、室町幕府は大岡荘内の牧御堂・岡宮浅間宮・大幡寺の別当職に、鶴岡八幡宮寺密乗坊の頼印を任じており(『市史』2─250号)、1413(応永20)年10月には、将軍足利義持が同別当職を士用寿丸に与えている(『同』2─286号)。また翌年7月には同別当職が閲所分となり、足利満詮からその子、醍醐寺地蔵院の持円に与えられている(『同』2─287号)。大幡寺は現存しないが、「高田氏歴代伝記」にその名がみえることから(『同』2─系図11号)、同史料が書かれた江戸時代のある時期までは存在したようである。
http://www.city.susono.shizuoka.jp/soshiki/4/5/11/2/2369.html

「閑谷法師」の経歴は、『閑谷集』から詳しく分かる。

・京都の大原(京都府京都市左京区)に住んでいた。(大原を「ふるさと」と呼んでいるので、大原で生まれ育ったと思われる。)
・1181年2月、加賀国粟津(石川県小松市粟津)に移り住む。
・1181年10月、但馬国に移り住む。その後、修行で全国各地へ行脚する。
・1185年8月から駿河国大畑の草庵に住み、終の棲家とする。
・愛鷹神社、伊豆山神社、日吉神社(現・日枝神社)、岡宮浅間神社、願成就院など、駿河&伊豆国の寺社を訪ねる。
・1194年10月、京都に住む父が危篤状態になり、上洛する。
・11月22日、父、死去。大原に籠もり、49日の法要後、大畑に戻る。
・1195年12月の東大寺の大仏の落慶供養には残念ながら不参加。
・1202年、七庚申の詠歌が掲載されている。
・1204年10月末、「そうだ、京都へ行こう」と思い立ち、11月5日に入洛。この日、北条政範(?)が急逝したことを悼む歌を読む。東大寺の大仏を見学し、京都で旧知の人と再会し、その人経由で宮様から12月8日に梅の枝を頂き、年内に大畑に戻り、浮島ヶ原に八万基の塔を建てる。
・1207年11月19日、願成就院を訪ねる。(この記事の途中以降、欠損。)

 「閑谷法師」が終の棲家とした大畑は、牧氏領の「大岡牧」の北端に当たる。居住した草庵が大幡寺に発展したことを考えると、「閑谷法師」は領主・牧氏とは深い関係にあったと考えられる。「閑谷法師」は牧一族であったか、牧一族が「閑谷法師」の大檀那(パトロン)であったか。
 現在、「閑谷法師」は、牧四郎国親の子に比定されている。藤原姓牧氏は、大畑を領していたが、公家であり、京都に住んでいた。牧氏の邸宅や菩提寺が大原にあって、「閑谷法師」は大原で生まれたのだろうか?
 平安時代、大原は、平安京と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄え、朝廷の「大原牧」があった。甥・平頼盛に長年仕えた藤原宗親は、大原に住んでいたために牧場経営に詳しかったのか、平頼盛が領していた「大岡牧」の荘官に任命され、牧宗親と名乗った。

  藤原宗兼┬女子・宗子(平忠盛室。池禅尼)─平頼盛
      ├宗長
      ├宗賢
      ├牧三郎宗親─女子・牧の方(北条時政後室)─北条政範
      ├牧四郎国親─閑谷法師
      └女子(高階泰重室)

・杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置」1994
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/4784208186/
・宝賀寿男「杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
・『資料の声を聴く』「池禅尼と牧の方」
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1172.html

■野口実「伊豆北条氏の周辺 -時政を評価するための覚書-」
 ところで、すでに『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』(2004年)第2編第5章「荘園制の確立と武士社会の到来」(杉橋隆夫執筆)に紹介されたところだが、最近になって牧氏の文化レベルにおける貴族的性格を示す貴重な成果が国文学者浅見和彦によって示されている(「『閑谷集』の作者─西行の周縁・実朝以前として─」有吉保編『和歌文学の伝統』角川書店、1997年)。
 この論文によると、鎌倉初期になった歌集『閑谷集』の作者は『鎌倉年代記』に建久三年(1192)の「六波羅探題」として所見する牧四郎国親の子息に比定され、彼は養和元年(1181)2月ごろ加賀にあり、同年10月ごろ但馬に移って翌春のころまで滞留していたが、文治元年(1185)8月、牧氏の本領で平頼盛領であった駿河国大岡庄(牧)内の大畑(現在の静岡県裾野市大畑)に庵を構えるにいたる。そして、そこには都よりの知人も立ち寄り、また涅槃会・文殊講などの法会が執り行われ、あわせて歌会も開かれていたというのである。
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

『万葉集』を読むと、当時の政情が分かるので、歴史学者は『万葉集』を読むと聞く。閑谷法師は、北条時政後室・牧の方のいとこなので、『閑谷集』を読むと、鎌倉時代の政情が分かりそうだが、『閑谷集』の登場人物で特定できるのは、元久元年(1204年)11月5日の早朝に亡くなった北条政範(北条時政と牧の方の子)だけであり、『閑谷集』は、歴史の研究よりも、静岡県の当時の様子を知る郷土資料、地誌として使われる。

3.『閑谷集(抄)』

■序(1198年、執筆開始)


★『閑谷集』 が広まっていない理由の1つは、欠損箇所が多いことではないだろうか。「さぁ読むぞ」と意気込んで序文を読み始めると、いきなり欠損で欝になる。
★どの写本にも欠損があるということは、そもそも自筆原本自体が虫食いの欠損状態で発見されたのだろうか?

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    閑谷集 はし書
                  釈閑谷
それわがみうき家をいでて、鷲山□□(に先?)づこころにはまかせたれども、法のみのすがたもあらはれずして、なほをくる間のながきうき世にめぐらむことをしづかにおもひまはせば、【以下欠損】

それ我が身憂き家を出て、鷲山(じゅせん)に先ず心には任せたれども、法(のり)の身の姿も顕れずして、猶送る間の長き浮き世に巡らむ事を静かに思ひ回せば、

(長男ではないので?)居場所の無い家を出て(出家して)、まずは鷲山(釈迦説法の地・霊鷲山)に心を任せたが(仏教に入信したが)、仏の顕現は無く、今でもこの長い浮世を生きていることを(私のこれまでの人生を)、心静かに思い返せば、

※『閑谷集』「修善の心を」(109番歌)
  さねかずら長き浮世の耐えせねば 御法の契りに結びつるかな
  (長い浮世に耐えかねて出家した。)

■木高き花、風に散る。(1204.10.~1204.12.)


★閑谷法師は、藤原姓牧氏の領地である大岡牧の北端・駿河国大畑(静岡県裾野市大畑)の草庵(後の大幡寺)に住んでいた。
★元久元年(1204年)10月、「尊き所(東大寺大仏殿?)なんと拝まん」と思い立って、同年11月5日に京都に入った。その後、年内に駿河国大畑に戻り、浮島ヶ原に「八万塔」を建てた。
★参考記事「閑谷法師『閑谷集』に見る北条政範?」
https://note.com/sz2020/n/n0ba2f63c8e16

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 元久元年十月のころ、たうときところなむとおがまんと思ひたちて、おなじきしも月の五日、みやこいりはべりたるに、なにとなく心さはぎして、ものあはれなるやうにおぼえけるに、たのむ人のもとへ、なにをかはべるなどたづねたりければ、けさのあけぼのに、きたきたかきはな、風にちりはべりて、よものなげきそらにみちぬるよし、申おこせたりけるをきくに、心も心ならずして、夢にだにしらざりけるわが身さへうらめしくおぼえて、墨ぞめの袖しほるばかりにて、そのよもあけにけり。なつかしかりしすがた、しづかに思ひつゞくるに、いよ\/かなしくおぼえてよめる。
  なさけなくちらすかぜこそかなしけれ まだ冬ごもるはなのすがたを

 元久元年十月の頃、「尊き所なんと拝まん」と思ひ立ちて、同じき霜月の五日、都入り侍りたるに、何となく心騒ぎして、物哀れなるように覚えけるに、頼む人の元へ「何をか侍る」など尋ねたりければ、今朝の曙に「木高き花、風に散り侍りて、四方の歎き、空に満ちぬる」由、申しをこせたりけるを聞くに、心も心ならずして、夢にだに知らざりける我が身さへ恨めしく覚えて、墨染の袖しほるばかりにて、その夜も明けにけり。懐かしかりし姿、静かに思ひ続くるに、いよいよ悲しく覚えて詠める。
  情けなく散らす風こそ悲しけれ まだ冬篭る花の姿を

【花の都】
歎きながら、つくづくとあかし暮らす程に、師走にもなりぬれば、「さてもあるべきにもあらず」とて、年の内に下り侍るに、「花散る里、情けなし」とは思ひながら、「あとをだに、その形見とみるべきものをな」と思ひつつ来るに、離れ難く覚えて、
  しかすかに立つうき花の都かな 名残を思ふ袖の雫に

【逢坂の関】
(山城国と近江国の国境・逢坂山(滋賀県大津市))
「遅しな」と供達に勧められて、心ならず世の内にいて侍りて、逢坂の関を通り侍りけるに、何をも恨めしくのみ覚ゆるままに、
  相坂をながく隔つる身とならで 止めぬも辛し 関の関守

【音羽山】(山城国と近江国の国境・音羽山(京都市山科区))
音羽山の方に風の吹きけるを聞きて、
  身に積もる浮きことの葉の色深く 辛き嵐の音羽山かな

【真野】(滋賀県大津市堅田町真野)
同じ道なれども、あがりしにもあらぬ心地して、哀れ尽きせぬままに、
  知らざりき 同じ野原を帰るさに 涙の露のかかるべしとは
  道すがら心も消えて露枯れの 萱が下折れ 分けぞやられぬ

【鳴海潟/鳴海野】(愛知県名古屋市緑区鳴海)
鳴海潟を過ぎ侍りけるに、「潮の満たぬ前に」と急ぎ合ひたるにつけても思ひ忘るること無ければ、
  鳴海潟 早く打てども澪土筆 波にしほるる歎きとぞなる

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(注)潮が引いている時は、鳴海潟(宵月の浜)を歩き、潮が満ちると上野(鳴海上野、鳴海野)を歩いた。

  君恋ふと鳴海の浦の浜久木 しほれてのみも年を経るかな (俊頼)
  鳴海潟 潮せの波に急ぐらし 浦の浜路にかかる旅人 (大江忠成)

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【小夜(さや)の中山】(静岡県掛川市佐夜鹿)
小夜の山にて、
  日を経つつ 重き歎きの身に添ひて 苦しさ増する小夜の中山

【宇津ノ谷峠】(静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町の境)
宇津ノ山を通りて侍るに、「彼の儲けしたりし所なん」と人の申すを聞きて、
  宇津ノ山うつつともなし 仮初の住処を夢に見る心地して

【駿河国大畑】(静岡県裾野市大畑)
元の住処に下りて、まことのみちに彼のいるためしより他の弔ひなかりけり。「大方、高きも卑しきも、吾も吾もと営み侍る」由を人の申すを聞きて、
  後の世も何か思へば暗からむ さしも集むる法の光に

【浮島ヶ原】(静岡県沼津市)
「彼のために」とて、浮島ヶ原に出でて、「八万基の塔」を立て侍りけるに、
  心ざし重ぬる石の数毎に かの光射す悟りなるべし
波路遥かに見えつるにつけても、忘れ難く覚えて、
  身を捨てて漕ぎ離れにし海士小舟 はや彼の岸に寄ると聞かばや
夕暮れさまに風に従ふ波、袂にかかり侍りければ、
  さらぬだに乾きもやらぬ墨染めの 袖のみ濡らす浦の潮風
「彼の御事を仏に迎ひ奉りておはする由を夢に見たり」と人の申すを聞きて、
  しかばかり悟りの月と友ならば 浮世に廻る我も導け

■最終話?:願成就院の開眼供養(1207.11.19.)


★承元元年(1207年)11月19日、閑谷法師は、願成就院の南塔婆(三重塔)供養の際に訪れ、願成就院の美しい諸堂宇が軒を並べ、珠玉に飾られた船が巨大な池に浮かぶという、「浄土様式」の壮大な寺院の描写をしている。
 そして、中途半端に終了。

■『吾妻鏡』「承元々年(1207年)11月19日」条
承元々年十一月大十九日庚寅。爲遠州禪門御願、伊豆國願成就院南傍、被建立塔婆。今日、被遂供養。本佛者、大日五佛等尊容云々。

(承元々年(1207年)11月19日。北条時政の願いとして、伊豆国の願成就院(静岡県伊豆の国市寺家)の南側に塔婆(三重塔)を建てた。今日、開眼供養を行った。御本尊は、大日如来を中心とした五智如来だという。)

※願成就院
・初代執権・北条時政が建立した大御堂(1189)と南塔(1207)
・2代執権・北条義時が北条時政の供養として建立した南新御堂(1215)
・3代執権・北条泰時が建立した北条御堂と北塔(1231)
https://ganjoujuin.jp/

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承元ゝ年十一月十九日、北条御塔供養のはべりけるよしをきゝて、ちやうもむまではおもひもよらずみぐるしからぬさきに、そのにはばかりをだにもふまんと思ふこころざしのふかきに、よのうちにまいりはべりけるに、月のくまなくあかゝりければ、
  たづねみるまことの□□□友なれば これやさとりのありあけの月
まいりて九輪のひかりをおがみ侍るに、こころもあきらかなり。宝鐸のひゞきをきくにつけても、みもすゞしくおぼゆ。あけの屋しろは、はなのとびらをひらき、さとりのやどは、こがねの軒ならぶ。法をとなふるとりは、みぎはのなみにたはむれ、たまをかされるふねは、いけのみずにうかぶ。かやうのことどもみるに、浄土もかく

承元元年十一月十九日、「北条御塔供養の侍りける」由を聞きて、弔問までは思ひもよらず見苦しからぬ先に、「その庭ばかりをだにも踏まん」と思ふ心ざしの深きに、夜の内に参り侍りけるに、月の隈無く明かりければ、
  尋ね見るまことの道の友なれば これや悟りの有明の月
参りて九輪の光を拝み侍るに、心も明(あきら)かなり。宝鐸の響きを聞くにつけても、身も涼しく覚ゆ。朱(あけ)の社(やしろ)は、花の扉を開き、悟りの宿は、黄金(こがね)の軒並ぶ。法(のり)を唱ふる鳥は、水際の波に戯れ、玉を飾れる船は、池の水に浮かぶ。斯様の事共見るに、浄土も斯く【以下欠損】

※『閑谷集』 の特徴は、欠損箇所が多いこと。大幡寺から自筆原本が出てくればいいのですが、大幡寺は江戸時代に廃寺なったようで、自筆原本は現存せず(未発見なだけ?)。写本でいいので、完本を読みたいものである。神保町あたりに積まれてない?
 その前に『今古残葉集』所収の『閑谷集序』(岩瀬文庫、国立国会図書館蔵)とか、大畑で 寂蓮法師(1139?-1202)が完成前の『閑谷集』の歌を書き写したという『閑谷集(断簡)』(国文学資料館鶴見大学図書館、大英図書館蔵)とか読んでみたいです。

・国文学資料館『閑谷集(断簡)』
かへしひしりにかはりて
はまちとりふみゝてあとをとめよとてたちそかくれしあきのゆふきり
ある人のもとよりおほはたにゐたれはくりおほくあるらんすこしおこせよと申つかはしたりけるかへりことに
(返し。聖に代はりて、
浜千鳥文見て跡を留めよとて 立ちぞ隠れし秋の夕霧
或る人の元より「大畑に居たれば、栗多くあるらん。少しおこせよ」と申し遣はしたりける返り事に(詠める。
大畑(機)に掛けては織れと白糸の 思ひ乱れて栗も遣られず))
※「浜千鳥」:砂浜を歩き(踏み)、足跡をつけることから「ふみ」に掛かる掛詞。
http://dbrec.nijl.ac.jp/KTG_B_200014308

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