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閑谷法師『閑谷集』に見る北条政範?

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元久元年十月のころ、たうときところなんとおがまんとおもひたちて、おなじき霜月の五日、みやこいりはべりたるに、なにとなく心さはぎして、ものあはれなるやうにおぼえけるに、たのむ人のもとへ、なにをかはべるなどたづねたりければ、けさの曙に、木たかき花、風にちりはべりて、よものなげき空にみちぬるよし、申をこせたりけるをきくに、心も心ならずして、夢にだにしらざりけるわが身さへうらめしくおぼえて、すみ染の袖しほるばかりにて、その夜もあけにけり。なつかしかりしすがた、しづかにおもひつゞくるに、いよ\/かなしくおぼえてよめる。
  なさけなくちらす風こそ悲しけれ まだ冬ごもる花の姿を

元久元年十月の頃、「尊き所なんと拝まん」と思ひ立ちて、同じき霜月の五日、都入り侍りたるに、何となく心騒ぎして、物哀れなるように覚えけるに、頼む人の元へ「何をか侍る」など尋ねたりければ、今朝の曙に、「木高き花、風に散り侍りて、四方の歎き、空に満ちぬる」由、申しをこせたりけるを聞くに、心も心ならずして、夢にだに知らざりける我が身さへ恨めしく覚えて、墨染の袖しほるばかりにて、その夜も明けにけり。懐かしかりし姿、静かに思ひ続くるに、いよいよ悲しく覚えて詠める。
  情けなく散らす風こそ悲しけれ まだ冬篭る花の姿を

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元久元年(1204年)10月に「聖地(注1)などを拝みに行こう」と思い立ち、同年11月5日に京都に入ると、胸騒ぎがして、何となくしみじみとして、頼る人(注2)に「何かあったのか?」と聞くと、今日の夜明け前になって、「高木の花が風に散ってしまい(気高い北条政範が急逝してしまい?)皆の嘆きが空に満ちている」と返事が来て、聞いて気が動転し、夢でさえも知らなかった自分を恨めしく思い、法衣の袖を涙で濡らしていると、夜が明けた。(北条政範の?)懐かしい姿が次々と思い出されて、ますます悲しくなったので詠んでみた。
  まだ冬篭る花を情け容赦なく散らした風が悲しい

(注1)「尊き所」を「聖地」(京都の神社仏閣)と訳しておいた。落慶供養に参加できなかった東大寺の大仏のことであろうが、私の説は「尊き人の晴れ舞台(12月10日の源実朝室の花嫁行列)」であり、甥の北条政範が、先頭を騎馬で進む姿を見物したかったとする。
(注2)
「頼む人」とは、「京都滞在中の宿泊場所や食事などの世話をしてくれる人」の意である。京都で何が起きた事がすぐに耳に入る人のようで、「北条政範が死んだ」とは言わず、「花が風に散った」と言うところをみると、公家であろう。藤原定家のような歌人かとも思ったが、「(閑谷法師と)中央歌壇との接触は確認し得ない」(『新編国歌大観』)という。

・まだ冬篭る花=春の開花の準備をする桜=将来有望な若い人=北条政範?
・散らした風=北条政範を殺した病気? 人?

■『新編国歌大観』(第7巻 私家集編Ⅲ 解題)『閑谷集』
 作者は未詳ながら、法体の歌人で、父は京に在り、作者も大原に住んだことがあるが、養和、寿永の頃には加賀、但馬におり、文治元年(1185)以後は駿河国「おほはた」に住んだらしい。建久五年(1194)父が病没した時を含めて何度か上京もしている。元久元年(1204)10月北条政範の死を悼む歌一連、承元元年(1207)同時政発願の堂供養に関する歌などから北条一族との関係が注目される一方、歌会歌らしきものは存するものの中央歌壇との接触は確認し得ない。

上の動画の、
・「閑谷集」の読み方は「しずたにしゅう」ではなく「かんこくしゅう」。
・北条政範は「木高き花影」ではなく「木高き花」にたとえられた。
の誤り。
 なお、野口実「伊豆北条氏の周辺 -時政を評価するための覚書-」にも
「『閑谷集』の作者は政範を「木高き花影」と呼んで」
とある。『閑谷集』の「木多可き花、風尓ちり」(木高き花、風に散り)の「風(かぜ)」を「影(かげ)」として、「木高き花影に散り」としたのか? 「風」と「影」の字は似ていないし、「花影」は「はなかげ」ではなく「かえい」と読む。「花影」とは、「月などの光によって花の落とす影のこと」で、特に、桜の花の影を指し、俳句では春の季語である。

 月光(げっこう)西に渡れば 花影(かえい)東に歩むかな(与謝蕪村)

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【花の都】
歎きながら、つくづくとあかし暮らす程に、師走にもなりぬれば、「さてもあるべきにもあらず」とて、年の内に下り侍るに、「花散る里、情けなし」とは思ひながら、「あとをだに、その形見とみるべきものをな」と思ひつつ来るに、離れ難く覚えて、
  しかすかに立つうき花の都かな 名残を思ふ袖の雫に

【逢坂の関】

「をそしな」と共達に勧められて、心ならず世の内にいて侍りて、逢坂の関を通り侍りけるに、何をも恨めしくのみ覚ゆるままに、
  相坂をながく隔つる身とならで 止めぬも辛し 関の関守

【音羽山】
音羽山の方に風の吹きけるを聞きて、
  身に積もる浮きことの葉の色深く 辛き嵐の音羽山かな

【真野】
同じ道なれども、あがりしにもあらぬ心地して、哀れ尽きせぬままに、
  知らざりき 同じ野原を帰るさに 涙の露のかかるべしとは
  道すがら心も消えて露枯れの 萱が下折れ 分けぞやられぬ

【鳴海潟/鳴海野】
鳴海潟を過ぎ侍りけるに、「潮の満たぬ前に」と急ぎ合ひたるにつけても思ひ忘るること無ければ、
  鳴海潟 早く打てども澪土筆 波にしほるる歎きとぞなる

【小夜(さや)の中山】
小夜の山にて、
  日を経つつ 重き歎きの身に添ひて 苦しさ増する小夜の中山

【宇津ノ谷峠】
宇津の山を通りて侍るに、「彼の儲けしたりし所なん」と人の申すを聞きて、
  宇津の山うつつともなし 仮初の住処を夢に見る心地して

【駿河国大畑】
元の住処に下りて、まことのみちに彼のいるためしより他の弔ひなかりけり。「大方、高きも卑しきも、吾も吾もと営み侍る」由を人の申すを聞きて、
  後の世も何か思へば暗からむ さしも集むる法の光に

【浮島ヶ原】
「彼のために」とて、浮島ヶ原に出でて、「八万基の塔」を立て侍りけるに、
  心ざし重ぬる石の数毎に かの光射す悟りなるべし
波路遥かに見えつるにつけても、忘れ難く覚えて、
  身を捨てて漕ぎ離れにし海士小舟 はや彼の岸に寄ると聞かばや
夕暮れさまに風に従ふ波、袂にかかり侍りければ、
  さらぬだに乾きもやらぬ墨染めの 袖のみ濡らす浦の潮風
「彼の御事を仏に迎ひ奉りておはする由を夢に見たり」と人の申すを聞きて、
  しかばかり悟りのつきと友ならば 浮世に廻る我も導け

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「浮島ヶ原」は、東海道53次・原宿一帯(西は富士川河口の扇状地、 東
は狩野川下流の扇状地性三角州までの間の東西約15㎞、南北平均約2.5㎞に広がる海抜平均5m以下の低湿地)である。

 足利尊氏の庶長子・竹若丸が上洛しようとして、北条氏の刺客・長崎&諏訪氏に殺された場所である。

 11月5日に亡くなった人物(北条政範?)の供養のため、浮島ヶ原に八万塔を建てている。「重ぬる石の数毎に」ということは、石を積み重ねた石塔(層塔)であろう。(石造の供養塔を「石塔」(広義)と呼ぶが、その中の「層塔」(狭義)である。「層塔」は、屋根が幾層にもなっているので「多層塔」「多重塔」ともいわれる。層の数は3重、5重、7重、9重、13重など奇数である。)
 沼津市にこの八万塔が残っていれば、誰が誰のために建てたか由緒も伝わっているはずだが、現在、沼津市の鎌倉時代の石造物は、鎌倉後期の宝篋印塔と五輪塔しか残っていないようである。
・「文化財まちあるきマップ(浮島編)
・『石仏と石塔!』「中部地方」

※沼津市は『原の石仏・石神』『香貫・我入道の石仏・石神』を発行している。石塔も含めた『沼津市の石造物』を発行していただきたいものである。


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