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橘神社

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橘神社(静岡県浜松市北区三ヶ日町本坂)は、空海、嵯峨天皇と共に「三筆」に並び称される橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀った神社です。

橘逸勢は流罪となり、伊豆国への護送中、本坂峠で気を失って落馬し、板築駅に運ばれて手当てを受けるも、承和9年(842年)8月13日に亡くなりました。罪人ですので、路傍に埋められ、目印に石が置かれました。

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■『日本文徳天皇実録』(巻第一)「嘉承三年五月十五日」条
追贈流人橘朝臣逸勢正五位下詔下遠江國歸葬本郷逸勢者右中弁從四位下入居之子也。爲性放誕不拘細節尤妙隷書。宮門榜題手迹見在延暦之季随聘唐使入唐。唐中文人呼爲橘秀才。歸來之日歴事數官以年老羸病靜居不仕。承和九年連染伴健岑謀反事。拷掠不服減死配流伊豆國。初逸勢之赴配所也。有一女。悲泣歩從。官兵監送者叱之令去。女晝止夜行遂得相從。逸勢行到遠江國板築驛終于逆旅。女攀號盡哀便葬驛下。廬于喪前守屍不去。乃落髮爲尼。自名妙冲。爲父誓念曉夜苦至。行旅過者爲之流涕。及詔歸葬女尼負屍還京。時人異之稱爲孝女。

京からずっとついてきた娘は尼となって妙冲と名乗り、草庵を建て、父の菩提を弔い続けました。その甲斐あってか、死後8年、冤罪となると、娘は墓を掘り起こし、遺骨を持って、意気揚々と都に戻りました。(この時、娘に恋していた若者が浜名湖に飛び込み、以後、葦が片葉になりました。)
https://note.com/sz2020/n/n537c58490f7f

草庵跡に建てられたのが橘神社ですが、八幡社の境内社となりました。橘神社を復活させたのが、日本書道芸術学院の寺澤秀先生です。

御神体は、鏡です。江戸時代末期に盗まれるも発見。しかし、また大正15年(1926年)に行方不明。(ご神体不在でも観光バスが来る神社ってどうなん?)「どんな鏡なのか拝見したいものだ」とずっと思っていました。

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 鳳来寺について調べていたら、鳳来寺所蔵の鏡の説明に「其七 此銘文の体、本坂村にて掘り出したる所の橘逸勢朝臣のとよく似たり」(橘神社の神体鏡の鏡銘に似ている)とありました。いやぁ「大吉羊」(「漢の鏡銘に祥を羊とすることが多いが、鏡銘には声字のみを用いる省略体が多い」by『字統』)なり、快なり。鳳来寺について調べていて橘神社の神体鏡の話が出たり、於万の方を調べていて戸田堯光の逃亡先の話が出たりと、ヒントや答えが突然降って来ることが歴史研究の面白いところです。

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