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藤長庚『遠江古蹟図会』015「信玄拝領之笛」

■武田信玄拝領の一節切

 武田信玄がいつ、どこで亡くなったのかは不明ですが、「三方ヶ原の戦い」の4ヶ月後に亡くなったとされますから、「三方ヶ原の戦い」の時の健康状態は、かなり悪かったものと想像されます。

富永藤兵衛(左手前)に短刀と笛(一節切)を与える武田信玄(奥)

山梨乃近所に一色村と云ふ有り。此の村に富永藤兵衛と云ふ豪家有り。村の長也。御朱印持ちにて、一色村中を領す。古き家筋にて、昔、信玄公、秋葉篭居の時節、此の藤兵衛先祖、医道功者成るに依りて、信玄公へ御薬を差し上げる。早速、御快気なされしに付きて、其の恩賞と有りて自身御所持し一節切之笛二管、並び短刀一腰拝領有り。今に至って富永氏の家の宝と弥蔵す。小刀は白鞘物なり。笛は一管は至って古管佳器(かき)也。一管は下品也。笛、袋に入れ、此の袋の切れを水鏡に写し吹くに於いては、瘧(をこり)落つと云ふ。此の宅、長屋門を入ると、庭前に名木の好き松有り。信玄公、一節切を吹く事を好み玉ふ。家の什物にて、常人に吹かする事を禁ず。貴人の器成れば也。

 「全国山梨地名発祥地」とされる「月見里」(静岡県袋井市上山梨・下山梨)の近くの「宇刈郷」(袋井市北東部。宇刈川の上流域)に「一色村」があった。この一色村に富永藤兵衛という土豪がいた。村長を務め、一色村を領することを証明する御朱印状を持っていた。

★「宇刈七騎」(宇刈郷の土豪7人衆→戦国末期には庄屋となって帰農)
・市場村の村松新五右衛門勝孝(市場村の庄屋と春岡神社の神官を兼任)
・下村の西尾与惣
・一色村の富永藤兵衛宗信(一色村の庄屋と若宮八幡宮の神官を兼任)
・三沢村の長谷川平兵衛
・馬ヶ谷村の内藤三左衛門
・中村の村松三郎兵衛
・大日村の小野勘右衛門

https://dl.ndl.go.jp/pid/765205/1/203

 富永家は旧家で、昔、武田信玄が火の秋葉山に(徳川家康は水の光明山に)篭もり、徳川家康に負けた時(『油山寺略縁起』)、体調を狂わせたが、この富永藤兵衛の義父は富永半右衛門と称し、久野城主の典医であったので、武田信玄へ薬を調合してさし上げた。すると、すぐに回復されたので、その恩賞として、時々吹いていた愛用の一節切を2管と短刀1振りを与えた。今もまだ富永氏は、家宝として所蔵している。短刀の鞘は白い。笛は1管は大変な名品であるが、1管は品がない。この笛を袋に入れ、袋の切れ(菱菊繻珍)を水鏡に写し吹くと、瘧(おこり。マラリアに似た熱病)が水鏡に落ちて治ると伝えられている。「藤兵衛屋敷」の長屋門を入ると、庭の前に名木の良き松の木がある。武田信玄は、一節切を吹く事を好んだ。この富永家の一節切は、高貴な人(武田信玄)が吹いた笛だとして、誰にも吹かせていないという。


 一節切の新品は5000円からあるが、室町時代の一節切は数が少なく、100万円はするという。武田信玄の愛用品であれば、その数倍はするであろう。

富永コレクション(富永家所蔵品):武田信玄から拝領した一節切以外にも、穴山梅雪の「痔が再発した。助けて~」という村松藤兵衛宛の文書などの武田家関連文書や、徳川将軍家から下賜された金扇などがある。

武田信玄から拝領した一節切と徳川将軍家から下賜された金扇(フェルケール博物館)

一節切(ひとよぎり):真竹製の縦笛で、「一節切尺八」とも。後に広まった「普化尺八」と区別するために、単に「一節切」と呼ぶことが多い。
 節が1つだけあるのがその名前の由来である。尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は中間部を用いるため、尺八に比べて細径、薄肉で、全長は1尺1寸1分(35.5~35.7cm)である。
 室町時代に中国から伝えられたとされ、室町時代から江戸時代初頭にかけて流行し、一休や雪舟も好んで奏したと伝えられている。
 「野田城攻め」の時、武田信玄は、村松芳休の笛の音に誘われて撃たれたという。横笛を吹く村松芳休のイラストをよく目にするが、村松芳休が吹いていたのは縦笛「一節切」である。音色は、尺八よりも、ソプラノ・リコーダーに似ている気がする。

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